夢の結晶

夢は過去の結晶

 

もうパリにはいられないな。そう考えた時、行き先はひとつしかなかった。母と妹が眠る海辺の村。俺が生まれる前まで母が住んでいた、俺の記憶には無い村。兵隊仕事以外知らないが、なんとかなるだろう。もうパリに、死んだあいつらの記憶の多いこの街には、いられない。

俺自身の荷物は多くなかったし、妹が使っていたロザリオ以外ほとんど手放した。夜明けにはパリを離れる。最後に酒くらい飲もう。以前よく行っていた酒場じゃなく、特にあいつと出会ったあの酒場は絶対ダメだ。あそこへ行けば、思い詰めた顔でひとり杯を傾けている隻眼の男に声をかけた、あの夜が蘇る。
歩いている間に、あいにくの雨が降ってきた。しのつく雨が石畳に流れる。雨に煙る中ぼんやり立ち尽くしていると、目の端に何かが見えた。反射的に振り向く。
「・・・隊長?」
まさか、そんなはずはない絶対に。死にかけている隊長に敬礼し、戦場に戻ったあの日。砲を撃ち続けたまさにその瞬間、隊長の命は消えていく。それを知っていながら。
昔の知り合いだという新聞記者とその妻が、二人の遺体を埋葬したと聞いた。死んだのは二人だけでなかったし、他の者たちも身内に知らせ、引き取られたりそのまま埋葬された者もいた。その混乱の間、俺はただ一度だけ、ふたりの顔を見た。並んで眠っているようにしか見えなかった、あいつの目を閉じたのは俺だった。

隊長がいるはずがない。でもあの金髪がふたりといるだろうか。つい目で追ってしまった、あの金色。演習の銃撃の、硝煙の中でさえ曇らず輝いていた。無造作に風に揺れる髪を見つめていたのは、俺だけではなかったけれど。
違う、あの人じゃない。そう思いながら、雑踏に紛れていく金色を追った。違うんだ、わかってる、でももしかしたら・・もう一度、会えるのかもしれない。会えたら・・会えるなら。
「待ってくれ!」
広場の先の、路地を曲がろうとした時、叫んで呼び止めた。金髪の動きが止まる。ゆっくりと、振り返る。その顔は。
「まさか・・」
粗末な荒服を着ている。でもそれは確かに。
「あなた・・もしかして、知っているの」
声すら似ていた。

 

「すまないな、こんな店で」
馴染みというほどではないが、知っている店に入った。小さく暗く、静かに話すにはちょうどいい。
「あなた、名前は」
「アラン・ド・ソワソン」
「そう、あなただったのね。オスカルと勝負して」
「俺が負けた」
「あの子は、本当は負けたのは私でした、と言っていたわ」
「ところで、俺は名前を聞いていない」
「ジェゼフィーヌ・ド・セギュール。オスカル・フランソワ・・の姉です」
やはり、そうか。低い声も、青い瞳すら似ているのは他人ではない。
「伯爵令嬢がなぜそんな格好で、パリの下町を歩いていたんだ」
「あの子の、オスカルの最後を知りたかったから。ロザリーが、あなたも知っているわね。あの人がふたりの遺体を埋葬してくれた。だから尋ねようと思っていたの、でも留守で。もう時間も無いのに、何もわからないままでいられないから」
「あんたは身をやつしているつもりだろうが、そこらの街の女じゃ無いってことはわかる。今このパリで貴族だと知れたら、どういう目に遭うかわかってるのか」
「そうね」
「隊長やアンドレも危ない目にあっただろ」
「私は家を出ているから、断片的にしか知らないの。あの子が・・叛逆して死んだと聞いて。父も母も、ほとんどその事には触れない。私も・・夫に言われて」
「亡命するのか」
「・・・ええ。でもどうしても私は知りたかったの。どうして、どうしてあの子は死んだの、どうして死ななくては」
声は震えているのは、嘆きより怒りだ。どうしてお前が死ぬんだ、どうして。愛する者に裏切られた、信じる道のために戦った。理由はある、しかし遺された者には永遠の問いだ。どうして。
「・・俺は最後の瞬間にはいなかったけれど、あの人は最後まで攻撃を続けろと言った。苦しい息の下で大砲の音が聞こえない、撃つんだ・・そう、言っていた」
「そんな・・・そんなふうに死ななくてもよかったじゃない。アンドレと逃げて生きればよかったのよ。ふたりで・・短い間でもいい、もしかしたらもっと長く幸福だったかもしれない。そんな道もあったでしょう」
「だが、それは隊長の生き方じゃない」
「よくもそんなことが言えるわね。あなたが何を知っているの。あの子は生まれた瞬間から、武家の嗣子として定められた。女として生きる道は閉ざされて、あの子がどれだけの物を背負っていたと思うの!!」
テーブルを叩いた拳は震えていたが、涙は溢れていなかった。俺を睨みつけている強い眼。意思をたたえた青い瞳。
「そうだな、俺はこの二年の、衛兵隊に来てからの隊長とアンドレしか知らない。隊長が女ながらに将校だった訳も、どうして近衛から衛兵隊に来たのかも。あいつも多くは語らなかった。でも語らないからこそ、わかることもある。あのふたりが・・」
俺は手付かずだった杯を一気にあおった。喉が焼ける、目の奥が熱くなる。
「あのふたりが、どれほど強く結びついていたか。それはよく知ってるさ。隊長が時々、アンドレを眼で追っていた。あの表情は忘れられない。普段はあれほど、軍人の仮面を強くかぶっていたのに」
「そう、あの子は、小さな頃からアンドレといる時だけ子どもの表情だった。お父様や他の大人達の時とは違う顔。私はそれがなんだか、憎らしかったわ。私にはあんな顔は見せないくせに」
「可愛い妹だったんだな」
「まさか、生意気だったわよ」
「それはわかる」
思いがけず、ふたりして笑ってしまった。もう笑うことなど忘れたと思っていた。
「あの子・・最後までアンドレと一緒だったのよね」
「ああ、一日だけ違えてしまったけれど。ずっと一緒だった」
「お母様は、あの子はアンドレと行ったのだからと、それだけ教えてくれた。私は・・それで良かったとは思えないけれど」
「アンドレは、最後まで生きようとしていた。隊長も、さよならと言ったが。諦めて目を閉じたんじゃない」
「わかっているわ。わかっていたのよ・・ずっと。あの子は私たちの手の届かないところにいる。何処まででも走って行ってしまう。わかっているけれど、苦しさが無くなるものではないわ」
それは同じだ。皆、同じなんだ。苦しい、辛い、あいつらが生きていた場所、飲んでいた酒、路地の角にすら面影がある。そこでどうやって生きればいい。もういない誰かの、過去からの声を聞きながら。
「でもあんたは、隊長が進んだ道が間違っていたとは思っていないだろう」
「・・何故、そう思うの」
「名前に、姓をつけなかったからな。オスカル・フランソワ、階級も貴族の称号もない、自分の力で立つひとりの女性の名前だ」
「・・・・」
「あの人は過去の全ての軛を捨てて、一歩踏み出した。俺たちもこの国も、これからどうなるかはわからない。それでも、あの人が自ら道を選んだことを、その強さを、忘れないでいようと思う」
「・・・・忘れられるはずなど・・ないでしょう。あれほどに鮮やかな人生を、私の・・愛しい妹を」
伏せた瞳からひとすじだけ、透明な涙が流れた。頬から顎を伝って、白い手の上に落ちる。あの人も最後の日、泣き叫んだ。あの人の涙を見たのは、それが最後だった。

 

その女性は、辻馬車に乗り込み御者が鞭を振るう寸前、身を乗り出して一言だけ言い残し去っていった。夏の短い夜が明けたら、一日が始まれば、俺も歩きだそう。

_______ねえ、あなたも・・オスカルを愛していたでしょう

 

遺された者だけが、過去ではなく明日を知ることができるのだから。