黒と夜

悪魔に魂を売る。あまりにもありふれた慣用句だが、やってみてもいいと思った。

 

それは酒場で出会ったアメリカ帰りの男だった。カードで負け、イカサマだと怒り相手に殴りかかった。殴り倒された相手が懐からナイフを取り出して向かっていくのを、隣席にいた俺が咄嗟に酒をかけて止めた。
「おかげで助かったぜ」
カードの負け分を取り上げ、相手を外に放り出してから、男は俺に酒を注いだ。
「馴染みの店だから、壊されたり血を見たりするのは勘弁してほしかっただけだ」
「そいつは悪かった」
「まああの男も、袖にカードを隠していたからな」
「やっばりそうだよな。あの野郎」
男は俺の肩を叩き、もっと飲めと注ぐ。やがてアメリカでの話になった。

その女は、川の向こう岸で俺を見てた。昼だったのに、月のない夜みたいな真っ暗な眼をしてた。俺は馬鹿みたいにそいつを見て。それから何度も川に行ったよ。女がいる時もいない時もあった。女は決して川のこちら側に来なかったし、俺も渡りはしなかった。そもそも話さえしなかった。でもなフランスへ帰るっていう前の晩だ。俺はどうしてもう一度会いたかった。
新月の夜で真っ暗なのに、俺は女が向こうにいることがわかった。さよならだ。一言だけ言った。そうしたら、女が歌ったんだ。歌の意味はわからない。でも寂しくて寂しい歌だった。だから、これを刻んだんだよ。あの女の目だ。
「俺が自分で彫ったんだぜ」
「自分で?痛いんじゃないのか」
「そりゃあな。でも、針を刺しながら、俺はあの眼だけを考えてた。あの眼、悪魔のいる地獄の底のように黒い。それなのに中が燃えているようだった。死んでも忘れられそうにないが、どうせなら死ぬまで、地獄まで持っていきたいのさ。地獄に堕ちたらあの女に会えるかもしれない」
「地獄で会う、か。それもいいな」
もし死の後に彼女に会えるなら。でも、彼女は地獄になど堕ちないだろう。堕ちるのは、俺だ。

男に教えられたとおり、染料を染みさせた針を腕に刺していく。皮膚の下へ針が刺さる鈍い音がする。――あの女の目だけを考えて。自らを針で刺しながら、思うのはただあの瞳。蝋燭の灯りで、左肩の下、腕の内側に針を刺す。ひりついて痛い、血も滲む、指先が震えそうになる。月のない夜に、自らを刺し続ける男。悪魔がとり憑いたと思われるだろうな、そう考えながら。だが手を止めはしなかった。あの目、あの目を俺の膚の上に。

夜半、全て掘り上がった。滲んだ染料と血を拭き取る。薔薇の荊の中に、二つの眼。でもそれはーー閉じている。あの青い瞳、冬の新雪に照り映える曙光のような、透徹した光を刻むことはできなかった。俺が刻みたかったのは、俺だけを見て、俺だけを愛する瞳。でも決してそれを知ることはない。だから俺も含めて誰も見ることなく愛することもない、閉じた眼を刻んだ。他の男のものではないけれど、俺のものでもない青い両眼。それでいい。

疲れ果て寝台に倒れ込んだ。まだ熱を持っている腕を抱え、刻んだ両眼を間近に見つめる。これで眠る彼女を、その双眸を一晩中見ていられる。俺の愛しいまがいもの。
ひりつき痛む腕を庇いながら、いつの間にか眠りについた。腕の熱と痛みで眠りは浅い。何か重い夢を見たような気がして、ふと目覚めた。まだ外は暗い。止血して冷やしておくべきだった、血が滲んでは不審がられる。そう考え、腕に目をやる。青い目が開いていた。

一瞬呼吸が止まる、まさか。何度も瞬きした。しかし先刻刻んだばかりの両目は青かった。瞳孔は深い瑠璃色、虹彩の輝きまで彼女と同じ。その眼が、すぐ前で俺を見据えている。息をするのを忘れたまま見つめていると、その目元がふと綻んだ。笑っているような眼。驚愕している間にも、その表情が変わる。少し伏せられ、悲しんでいるような。

これは彼女か。それとも俺が悪魔に魅入られたのか。伏せていた眼がゆっくり上がり、再び俺を見る。愛しているような眼で。

――――この眼で見つめられるなら、これが悪魔の所業でもかまわない。

そっと、指先を近づける。細い金糸のまつ毛が揺れる。恐れから震えているのか、それとも触れてほしいと願っているのか。触れたい、細いまつ毛は触れれば、少しだけ硬く、青い瞳に影を落とすだろう。瞬きしながら潤む目元にキスを。瞳孔が開き、語る眼で告げてくれる、“愛している”

愛してる、愛してしまった。どうしようもないほど、お前に魂が縛り付けられて動けない。解放もされたくない、ただその瞳で見つめてくれ、その目の中に映っていられるなら・・・。
夜の夢は甘く、時折どちらが現かわからなくなる。あの瞳、決して手に入らない、見つめ続けることもできない瞳が、夜ごとすぐそばにある。だから、あの時も・・わからなくなってしまったんだ。底なしの不安から現の彼女に手を伸ばした、あの夜。

その夜以来、瞳は開かなくなった。夜半にふと目覚め、月のない夜に左腕を見ても、そこに刻まれた両眼は眠っている。もう二度と、愛の言葉を囁かない。俺はため息を漏らして浅い眠りにつく。そんな夜を何度も過ごした。幾晩も、数週間、数ヶ月、浅い眠りの日々の果てに、刺青は消えた。

愛されていると知った日に。長い間、俺の腕の上にあった愛しい瞳は、消えてしまった。
愛している・・愛している。言葉にするたび、揺れる現の青い瞳が告げるたびに。皮膚の下に刻まれた染料が薄まり、滲み、掠れて、寂しげに消えていった。俺が刻んだ、俺が愛した、瞳だけの恋人。

月の下で、時折彼女が不思議そうに俺の左腕を見ていた。跡形もないはずなのに、その見えない痕跡を指で探り、そこに口づけする。その彼女を抱き寄せ、瞳の上、揺れるまつ毛にキスをした。
「愛しているよ・・」
俺の左腕の上で青い瞳が囁いている。

眠りにつこうとする彼女に、小さく低い声で歌う。地獄の底の黒い目をした女が歌っていた歌。それは、その目は俺だったのかもしれない。ここは地獄の底かもしれないけれど、確かなのは現も夢も、両方愛しているということ。夜ごと見つめてくれたまがいものの瞳も、強い意志を持ち時に青く燃える瞳も。

 

やがて眠りが近づいてくる。左腕のうえで眠る彼女の双眸は閉じている。深く寝入るその瞬間、夜の闇の中で青い瞳がーーー光った。

 

END