朱 −3

「アンドレ・グランディエ、入ります」
返答はあったのに司令官室にオスカルはいなかった。奥の扉が半分空いていて、仮眠室から咳が聞こえる。
「オスカル・・」
軍服はかたわらの椅子にかけてあり、寝台に身体を丸めて横たわっている。咳をするたび背中が震え、掠れた呼吸は風穴のような音がした。
「・・扉を閉めてくれ」
彼は静かに戸を閉める。彼女はようやく咳がおさまったのか、深くゆっくり息をしている。窓の方を向いている表情は彼から見えない。息を吸うごとに細くなった肩が震えている。彼はかがみ込むようにして、顔を覗きこんだ。硬く閉じた瞼のきわに涙が滲み、額の髪が汗ではりついている。
――小さな子どもになったようだ
目にかかる前髪をそっと指先ではらうと、彼女にその手を握られた。力は弱いのに、縋るように強く握られる。
「しばらく・・・このままで・・」
「館に帰ろう。ダグー大佐に後を頼んでくる」
「いや・・いい」
「館に戻れば侍女に薬湯を頼める。この仮眠室は夜冷えるから」
「いいんだ、アンドレ」
「しかし」
「ここへ・・」
細い腕が伸ばされる。彼女の身体に被さらないよう、狭い寝台に横たわった。夏の日の最後の明るさが、窓に背を向けた金髪をうっすら浮かびあがらせている。
「ここにいてくれ、お前がいれば・・・胸が楽になる」
目元に溜まっていた涙が、すっと流れた。彼はそれを指で掬い取って、そっとキスをした。触れるだけのキスでも血の味がわかる。

外はすっかり陽が落ち、灯りのない仮眠室は隅から暗くなっていく。もうすぐ部屋に篭った熱も冷める、窓を閉めよう。彼がそう思い、体を離そうとすると。
「だめだっ」
思いがけず彼女に強い力で抱きすくめられる。
「離れないで・・ここにいて、もう・・」
今日が最後かもしれない。それは言葉にならなかった。

彼は黙って彼女を抱きしめた。せめて自分の熱で暖められるように。
「アランは・・彼は、王家を守るとは言わなかった。私も・・守れとは、言えなかった」
「わかっているよ」
「私はあの方を愛している。たとえ主従でなかったとしても、愛していただろう。それなのに」

「あなたを守るとは、言えなかった。これまで培ってきた愛情を、信頼を、全て裏切ることになったとしても、言えなかった。私が持っている武力、暴力、私はそれを・・」
彼女の肩が震え、背中を丸めて咳き込んだ。彼女の背中に回した彼の手にも、肺と骨の震えが伝わってくる。体を痙攣させ、吐くように口にあてた細い指の間が朱に染まる。
「オスカル、もう」
「私は・・あの方に刃を向ける。愛し守りたかった人に・・・」

喘ぎながら黙ってしまったオスカルの、手と口元についた血を拭ってやる。彼のシャツの袖も赤くなった。
「オスカル・・逃げてもいいんだ。どこか南の、もっと暖かな土地で。流れる雲だけ見上げて・・・」
「そうだな・・」
肩で息をしながら答える声はか細かった。
「でも・・できない。どうしてなんだろう、できないんだ。愛を裏切ってまで、私は・・どうして」
泣く彼の頬に伸ばされた掌は冷たかった。
「今日ここで終わってもいいと思うほど、お前を愛しているのに、お前の腕の中だけに・・いられれば」
馬上で戦う彼女と、腕の中の儚い彼女。彼もそして彼女自身も、どちらも捨てられない。
「陽が昇れば、明後日・・いや明日だ。私たちは出動する」
「・・!」
「お前が来る前に伝令が来た。アンドレ、聞いておきたい・・お前は」
彼が止めようとするのも構わず、オスカルは身体を起こした。口元はまだ赤く、見つめる青い瞳も朱に燃えているようだ。
「私と共に・・行くか」

―――死んではだめよ
――守るんだよ

ふわりと、花の香りがした。もう萎れてしまった花。香りだけが、彼女の中に残っている。

「お前が死にゆく者なら、俺も黄泉路をいく。お前が命燃やすなら、ともに燃え尽きよう。お前が在る限り、そばにいる」
もう一度抱き寄せた彼女の身体から、花の香りがする。夜の女王と夏の花の女王。夜と昼、愛と義務、生と死の香りが混じりあう。
窓の外が白み始めた。部屋の隅まで次第に明るさが広がる。

 

「――――生きよう」

 

END

 

 

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