故郷の村に行ってみたいという、お前の申し出を拒めなかった。私が衛兵隊に移る前の、この時期でなければ行く機会はないだろうと。
――すぐに帰るよ
そう言って微笑んでいたけれど。
「アンドレ」
呼んでからいないことに気づく。厩舎で馬に鞍をつけようとして、何気なく声に出していた。今日は風が心地良いから、遠くまで行っても大丈夫そうだ。そんな彼の言葉が聞こえた気がした。彼はいつも遠乗りの時の天気を読んでいた。雨が近ければ、射撃の練習か剣を合わせる。夜は手詰まりになりがちなチェスをする、時にはモーツアルトを聴かせる。あれからも、そんな日々は変わらなかったのに。いや。
私が変わらないことを望んでいたんだ。私の望みを彼は叶えていてくれた。それが彼を苦しめたとしても。
あの夜の次の日も、彼はいつもどおり私の馬の世話をしていた。私は馬の首を撫でながら、お前も一緒に来るか、と聞いた。彼は黙って頷いた。馬を駆けさせる森も、見上げる空もいつもと同じ。
「・・昨日と何も変わってない、空も、私も」
「でも、雲は昨日と同じじゃない」
そう答えた彼の方を振り向く。晩夏の風が私たちの間に吹いた。私は空を見上げた、昨日高く聳えていた雲は薄くたなびいていた。一日で季節が移り変わる。
「それでも・・私は」
変わらないでいてほしい、声に出そうとした言葉が止まる。その一言はあまりに残酷だ。愛されていると知って、愛を返せないとわかっていて、どうして留めておける。私にそんな権利はない。わかっているのに彼を手放したくなかった。
「雲の形は変わっても、空から・・消えることもないな」
彼はそう言い、私の望みを受け入れた。それからは何も変わらない、はずだった。
夜、ひとりバイオリンを爪弾いてみるが、すぐやめてしまった。この広い館に彼がいないと言うだけで、どうしてこんなに空っぽに思えるんだろう。探せばいた、呼べば来てくれた。それなのに今はいない。
私は卓の引出しから紙を取り出す、ペンを持つ。
お前はもう戻らないのかもしれない。出会った幼い時からそばにいて、お前と離れる日など無くて。その間ずっと、声に出せない想いを抱えていたんだ。毎日、毎日、どれほどの月日を過ごしたのだろう。だからもし、お前が離れていったとしても、私も耐えなければならない。一刻毎に身を刻まれるようでも、お前が耐えた年月の分だけ耐えよう。
お前は戻らず、二度と会えないのかもしれないけれど。でももし、何か人生に、時折前触れもなく訪れる偶然によってお前を見つけることがあれば。
その場所に何千何万の人がいても、私はお前を見つける。どれだけ遠くてもお前だとわかる。私の生涯の終わりまで、老いて目が見えなくなったとしても、お前を見つけて名前を呼ぶだろう。それだけは・・・確かだ。
私は紙を折り、蝋で封をする。呼び鈴を引こうとして、手を止める。
厩舎に行き、彼がやっていたように馬に鞍をつける。隣にいる栗毛に振り向き、首を撫でてから言葉をかける。
「待っていて・・」
外へ出ると今日も空が高かった。白い雲は薄くたなびき、どこまでも広がっている。彼のいる遠い村まで。
「はっ!」
鎧を蹴り馬を走らせて、手紙を胸に私は雲を追う。長い旅になるかもしれない、戻れないかもしれない。だが頭上に雲がある限り、私は走る。彼の元へ、彼の名を呼ぶまで。
END