私が生まれた夜は嵐だったという。
いつだったのか、彼に生まれた日のことを聞いてみた。
「明け方だったそうだ。母は一晩中苦しんで、明け方うっすら窓の隙間から陽がさしていることに気付いた時、俺が生まれた。そう聞いた」
「誰しも、生まれた瞬間のことは自分で知り得ないのだな」
「いや・・俺は、覚えている気がするんだ。暗くて苦しい、でも突然、明るくなった。それまで聞いていたのとは違う、大きな音がした」
「まさか」
「そうだよな。でも、昔のことを思い出す時、なぜだかその記憶もある。昔ひとりで森を歩いていて、崖から滑り落ちた・・その時の記憶と同じように、唐突で、怖くて。あれはなんだったんだろうと考えたよ」
「怖かったのか」
「多分。生まれた瞬間に意識などないかもしれないけど、怖かったんだと思う」
「生まれた瞬間が・・怖い」
私は窓の外を見た。私の生まれた日、その瞬間、私は何を感じていたんだろう。
ある日、朝になったのに彼の姿が見えなかった。アンドレは?と訊くと、侍女は不思議そうな顔をする。厩舎にもいない。私の白馬の横にいるはずの栗毛もいない。館の使いにでも出ているのか。そのまま昼になり夜になった。彼は戻ってこない。呼び鈴を引き、侍女に探すよう言いつける。
「あの・・それは、誰のことでしょうか」
私は部屋を飛び出し、ばあやを捕まえた。
「お嬢様、私に孫はおりません」
ぐらり、と天井が揺れた。私を呼ぶばあやの悲鳴が遠ざかる。
「お前が生まれた夜は嵐だったのよ」
母が、薔薇の刺繍をしながら話している。
「朝からずっと・・雪が吹き荒れていて、外は真っ白だった。昼間なのに暗くて、時折窓の外を見ても昼なのか夜なのかわからなかったの」
「私は、覚えています」
母は驚いて刺繍の手を止める。
「覚えている?」
「何も見えない真っ暗なところで、ざわざわと音がしていました。それから、とても苦しくなって、突然明るくなった。でも音はずっと激しかった」
「オスカル・・」
母は十字を切ると、私を抱き寄せた。
「もうその話はしては駄目よ、他の誰にも。約束してちょうだい」
母の暖かな腕の中で、逼迫した声に幼い私は震えた。あの記憶は封印しなければならないものだと知った。でも私は忘れることはできなかった。突然開けた新しい世界と暗闇の世界、どちらにも嵐の音がしていたことを。
「アンドレ、何処だ!!」
私は叫ぶ、馬を駆けさせ探し回る。外は昼なのか夜なのかわからないほどに暗い、暗い・・真っ暗だ。
「お前に名前を授けましょう、アンドレ。いつか、心から愛する人に出会えますように」
小さな家の窓から、暖かな声が聞こえる。
「お前の名はオスカル、我が名を継ぐ者だ!」
嵐の音を掻き消すほどの強い声。嵐が・・風荒ぶ激しい音、生まれる前の音。
「誰にも話しては駄目」
「夜が開けるわ・・もうすぐ、もうすぐ会えるのね」
「それは誰のことでしょう」
―――アンドレ、何処にいる。生まれる前、目の開く以前、まだ人となる前、其処にいるのか。もう会えないのか、何処に、何処まで、どうすれば・・・
「オスカル!!!」
眼を開ける、明るい、眩しい。何故こんなに目が眩むほど明るいんだ。
「アンド・・・レ」
「なにやってるんだ、どれだけ探したと思ってる!」
そうじゃない、探していたのは私だ。誰を、どうして探していたんだろう。
「わかった・・わかったから、叫ばないでくれ。音が・・」
なにも聞こえないほど激しい音がしていたはずだったのに。吹き渡る風に、梢が揺れる音しかしない。目に映るのは雲ひとつない空と、心配そうに覗き込んでいる彼の顔。
「まったく・・何も言わずに姿をくらますのはやめてくれよ」
「悪かった、すまない」
身体を起こす。まだ少しぼんやりとして、何処かに何かを忘れてきたような心地がする。暫く、黙って風を感じていた。でも眼を閉じるのは怖い。何故。
「おばあちゃんも心配してたぞ、もう帰ろう」
「・・そうだな」
私は彼のそばにいた栗毛に近づき首を撫でた。大きな眼で戸惑ったように私を見ている。
「オスカル?」
その声、少し緑がかった黒い瞳。風が長い黒髪を揺らしている。陽が傾いていくのだろう、彼の背後の西空が、うっすらと色づき始めていた。
彼の前に立つ。幼い頃背丈を追い越されてから、いつも見上げていた彼の顔。私は腕を広げ、彼を抱きしめる。驚いて身じろぎするが、腕に力を入れ離さない。服を通して伝わる彼の心臓の音を聞く。暖かい、心臓は脈打っている、彼はいる。
「私を置いていくな。ひとりに・・しないで」
彼の大きな手が、私の髪を撫でている、優しく。
「何処へもいかない。決してひとりには、しないよ」
私は眼を閉じた、血が凍るような恐ろしさは次第に溶けていった。
眼を閉じて聞く、彼の心臓の音。私は気付いた、それは生まれる前に聞いていた、あの音だと。