まがいものも、希望と呼べるのだろうか
「娘はいらんかね」
空は重苦しい曇天の夕暮れ。暗い路地の角で唐突に声がした。
「・・なんだと」
「娘はいらんか、この娘じゃ」
彼は自分がどうして立ち止まってしまったのか、分からなかった。厚い雲から今にも雨が落ちてきそうで、足早に歩いていたのに。
「・・どの娘だって」
「お前、こっちに来い」
垢じみた服を纏った老婆が、暗い路地の奥を振り返る。裸足の小さな足が見えた。
「おい、この娘は」
「なんも不都合ありゃせん、これでもものの役にたつ」
背の曲がった老婆にようやく届くほどの背丈、体を覆っているだけの服からのぞく細い手足。彼は娘をじっと見つめた。
「貰おう」
「前金じゃよ、旦那は気前がいいの。さあどこへでも連れてくといい」
「連れて行っていいのか」
「用がすみゃ自分で戻ってくる。心配はいらん」
彼は娘の手を取った。老婆はもう路地の奥へと消えている。商品である娘を放置して消えるとは。彼は訝しんだが、改めて娘を振り返る。
「・・さて、どこへ行ったものか」
金を払ったものの連れて行く当てはない。途方に暮れていると、娘が一人で先を歩き出した。
「どこへ行く?」
娘は答えず歩いてゆき、かろうじて屋根と壁があるだけの荒屋へ行き着いた。娘は薄汚れ重そうな敷物を抱えると、細い腕で絞った。湿気なのか男たちの汗なのか、黒ずんだ水が滴り落ちる。
「・・こちらへ来なさい」
娘は頷きもせず彼に近寄る。
「名前は?」
娘は彼を見上げていたが、表情に何の変わりもなかった。彼はしゃがみ込んで、娘と同じ視線になった。
「名前は・・ないのかい」
「・・エレン」
「そう・・エレン」
彼は、娘の顔にかぶさっている髪をかきあげた。痩せた顔に似合わぬほどの大きな瞳。
「今だけ、いや今から君は」
娘の細くつんと上を向いた鼻、愛らしく赤い唇。彼はそれをそっと指で撫でた。
「今から君の名前は、マリーだ」
娘は大きな瞳を見開いたまま、無表情に彼をみている。空色の、吸い込まれそうな青い瞳。
「いいね」
娘は黙って頷いた。
「伯爵が?」
「ほんの一部の噂だけどな」
「お前の早耳には感心する」
「感心しない噂ほど広まるのも早い。今のうちに真偽を確かめたほうがいい」
「しかし俄には信じられん。まさかフェルゼンが」
オスカルは風で揺れる吐き出し窓から外を見た。
「そういえば最近は宮廷へも出仕していない。何度か使いをやったが、ほとんど返事もなかった。彼らしくはないな」
「郊外の別邸にいるらしい、すぐ動いたほうがいいと思う」
「・・何故」
振り返ったオスカルに、アンドレは言葉では答えなかった。彼の目を見返したオスカルはすぐにペンを手に取った。
「マリー、そうじゃない。微笑む時は手を添えて、そう」
「・・はい」
「扇はこうやって広げるんだ。少し下を向いて、口元を隠す。左手は・・」
娘はしどけなく長椅子にもたれかかり、気だるげに扇を弄んでいた。
「そう、そのままでいい。完璧だ・・本当にまるで」
彼は娘の足元に跪き、小さな絹の靴を手に取った。
「これは君・・あなたの瞳の色に合わせて作らせた。瞳を見ることができなくても、足元に目を落とせばあなたの瞳に出会える。せめてこの靴を、あなたに捧げたかった・・」
『嬉しいわ、伯爵』
「さあ、右足をこちらへ。なんと柔らかな踵だ。地上の硬い大地を踏んだことのない天使の足」
『わたくしが天使だとしても、あなたの為に地獄に堕ちてもいいの』
「堕ちるのは私だけ、いえ駄目です。地獄だろうとあなたと共にいたい」
『どこまでも、あなたと一緒にいてよ』
「その言葉・・それが聞きたかったのです。あなたは決して約束してくださらない。果たせぬ約束は何よりの不実だと知っておられるから。しかし、それでも」
彼は手に取ったままの小さな足先に口づけした。
「生涯愛する、離れないという約束を、その愛らしい唇から聞きたかった。その為に私は・・その為だけに」
『望みは・・それだけ?』
彼は顔を上げた。長い金色の睫毛に縁取られた空色の瞳。こぼれ落ちるように大きく、空虚な。娘は彼を見下ろしたまま、扇の影でふっと笑った。小さな赤い唇が弧を描いて、白い歯がわずかに見える。声を出さず、口元だけで彼に答えを促している。
「望みは、あります。あなたのその唇を」
扇をそっと手で払うと、彼は唇を近づけて吸った。
「あなたの、瞼を・・頬を」
言葉どおり、彼はキスを瞼に頬に降ろしていく、細い首筋と、羽根のようなショールに隠されていた胸元、そこまでいくと娘が息を漏らした。
「あなたが欲しい、全て欲しいのです。私の手の中で、逃さずに」
『ハン・・』
「それは違う!」
彼の鋭い声で、娘の動きが止まった。
「あなたが、私を呼ぶのは」
『・・・フェルゼン』
「そう・・そうだ。マリー、マリー様、私の・・」
履かせたばかりの靴が、絨毯の上に落ちた。ペチコートの下から伸びた白い足から絹靴下が脱がされると、娘はそれで彼の腕を縛った。
『さあ・・フェルゼン、来て。わたくしの・・そこへ』
「ああ・・・マリー、あなたは私のものだ。他の誰にも、渡さない」
「返事は来たのか」
「これだ」
オスカルが突き出した手紙には“主人は療養中で誰にもお会いになりません”と、伯爵とは別の筆跡で書いてあった。
「何度もなしのつぶてで、ようやく来た返事がそれだ。話にならん、今から向かう」
「オスカル、俺が行くよ」
「何を言ってる、私が」
「お前は駄目だ」
「どうして!」
今にも掴みかかりそうなオスカルを前に、アンドレは静かに言った。
「多分、お前では駄目なんだ。でも・・もしかしたら、俺なら」
オスカルは視線を離さず、アンドレの目の中にあるものをおし計っていた。
「わかった、お前に頼む・・どうか、伯爵を」
「力を尽くすよ」
お前のために、とは言わずアンドレは部屋を出た。彼が馬で発つ後ろ姿を、オスカルはずっと見つめていた。
遠くで馬のいななきが聞こえ、重い瞼を開く。部屋は暗く澱んでいて、昼か夜かも分からない。目隠しをされていたはずの薄布は、ほどけて寝台に投げ出されている。
『・・・フェルゼン、駄目よ。目を閉じていなくては』
「マリー・・様」
『いけない人ね。罰が必要だわ』
かろうじて開けた瞼をまた薄布で塞がれる。どこかで言い争う声が聞こえた気がしたが、彼は小さな手に導かれるまま、胸に顔を埋めた。香水に混じって、泥のような匂いがする。彼は一瞬顔を顰めたが、唇にあたる肌を貪り続けた。
『・・伯爵、あなたは私のもの。そうあなたが望んだのだから。決して、離れないでいてあげるわ』
それは自分が言った言葉なのだろうか・・彼は掠れる意識の中で思った。離さない、どこへも逃さない・・・・逃げられない・・何故・・
「伯爵!!」
荒々しく扉が開けられる音がして、風がどうっと入ってきた。煽られてバルコンの掃き出し窓も音を立てて開いた。
「伯爵!目を覚まして、此方へ来てください」
蝋燭も消え急激に冷えていく部屋で、彼は聞き覚えのある声だと思った。どこで・・あれは誰だ。ずれた薄布を力無く引き下げると、扉のところに男が立っていた。黒髪の・・あれは。
「アン・・ドレ?」
「伯爵!」
男が近づいてきて、彼の腕を掴んだ。
「目を覚ましてください、これは彼の方ではありません」
「・・嘘だ」
「わかっているでしょう、この娘は違う」
「・・娘」
「似ていても違います、彼の方ではない、こんなふうにあなたを籠絡したりしない。閉じ込め惑わせ、あなたを縛った。彼の方は、絶対にこんなことはしないんです!」
『・・・フェルゼン』
「ああ・・・」
彼はアンドレに腕を取られたまま、娘に手を伸ばした。風に波打つ帳の向こうから、白い手が差し出されている。
「伯爵、俺にはわかります!でも、それは・・・偽物だ」
娘へ伸ばしていた手が瞬間止まる。
「偽物なんです・・伯爵」
娘は笑っている。形のいい唇の端が上がり、白い歯がのぞく。しかしその奥、口の中は腐っていた。甘やかな吐息は臓物の匂いがする。
「・・あっ・・あああ・・・ああああっーーーーー」
彼は寝台に突っ伏して、吼えた。吹き荒れた風が一瞬止んで帳が降りると、そこに娘の姿はなかった。
「厩から馬が一頭盗まれたそうだ」
「娘の行き先は」
「皆目分からん。伯爵も語ろうとしない」
「そう・・だろうな」
オスカルは肩を落としたまま、ワインのグラスを傾けている。
「お前が行ってくれてよかった。私では、駄目だったろう」
アンドレはそれには答えなかった。
「ヴェルサイユの邸宅に戻られて、外を散策するくらいには回復してると聞いたよ」
「・・良かった。彼の方には、療養中だとだけ伝えてある」
「それがいいな」
「ああ・・」
オスカルはきっと分からない、どれほど苦しく恋慕っていたとしても、まがいものを愛そうとはしない彼女なら。だが、俺なら・・わかる。
「雲が晴れたぞ、アンドレ」
オスカルは立ち上がって窓を開けた。続いていた曇天は跡形もなく、薄い雲がたなびくばかりの空が広がっていた。薄く青い、どこまでも透明な青空。
「ようやく帰ってきたのかい。ああ、ドレスはこっちへ寄越しな。まあ、今だけ眠っていてもかまわん。明日からまた商売だからね」
老婆はドレスを抱え、足を引きずりながら荒屋から出て行った。その頭上にはまた________重苦しい雲がかかり始めていた。
END