それは神のいたずらか
あのバスティーユの日、崩れ落ちる塔の瓦礫が礫のように落ちてきた。
「オスカル!!」
悲痛な声と衝撃の後は、しばらく土煙で何も見えなかった。強い風が吹いて、眼前で倒れている彼を見つけるまでは。
「・・・・アンドレ!!」
彼が私を突き飛ばし、彼自身は半身が瓦礫に埋もれていた。
「これしか、方法がありません」
医者の言葉は絶望の宣告に思えた。しかし。
「・・・頼み・・ます」
彼の右脚は、膝から下が切断された。私は眠る彼の前で膝を折った。生きてくれ・・・生きて。
やがて眠りから覚め、苦痛に顔を歪ませながら彼はかすかに微笑んで、私の頬の涙をぬぐった。
ヴェルサイユからは我先に貴族が逃げ出しているという。事態は混迷するばかりだったが、私は彼の傍から動かなかった。高い熱にうなされ、意識が朦朧としている中で時々、そこにはない右脚に触ろうとしていた。
「幻肢です」
失った身体の部位が、まだあるように痛みを感じるという。私は彼の手を強く握り、無い右脚をさすった。彼の表情が少しだけやわらいだ。
「裏切り者め!!!」
彼の部屋に行こうとした私の背後から、刃物を構えた男が駆け寄ってくる。咄嗟に身体を捻らせて避ける。
「隊長!!」
走ってきたアランが刃物を叩き落とし、男を組み敷いた。
「王妃の信頼を受けながら、この裏切り者!」
男はまだ叫んでいた。私は壁にもたれて崩れ落ちた、その時。ガシャーンと奥の部屋でガラスの割れる音。悲鳴。
「アンドレ?!!」
部屋に駆け込むと、突風にあおられた窓が割れ、ガラスが飛び散っていた。窓際で血まみれになった彼の上に。
「そんな・・・」
落ちてくるガラスを咄嗟に避けようと、手を出したのだろう。左手の薬指はもう、繋がらなかった。
ベルナールやアランの勧めもあり、私たちは縁のない土地に移り住んだ。彼は右足に義足をはめ、歩くこともできるようになった。
「歴戦の海賊みたいだろ」
暗い顔をした私に、彼が笑って言う。
「オスカル・・」
彼はまた、私の涙をぬぐう。
「これがお前の足や指なら、俺は身を千切りたくなるほど辛い。だからいいんだ。もう、泣かないでいい」
私は答えの代わりに、彼を強く抱きしめた。その思いは私も同じだったけれど。
冬が近づく。彼はまだ時々、眠っている間に右足に触ろうとしていた。目を覚ました私は彼の足に触れる。そこには冷たい木の棒しか無かったが。
「どうした、オスカル!」
彼の声が遠くなる。倒れこんだ床が冷たい。暗くなる視界の隅で、手のひらに吐いた血が見えた。口の中に血の味がする。胸が・・重い。
気づくと寝台に横たわっていた。夜になっていて、外は星あかりで眩い。暖炉にはあかあかと火が燃えている。
「寒さが辛かったんだろう、もう大丈夫だから」
身体はまだ冷たいが、彼が左手で握っている手だけは暖かかった。
それから幾日、私はうつらうつらとして目覚めなかった。時折、目を開けると彼がいる。私は手を伸ばした。彼の左手、右足に触れなくては、暖めなくては。彼が痛みを感じないように。しかしすぐに意識が遠ざかっていく。私の名を呼ぶ優しい彼の声だけが、聞こえる。
苦痛で目覚めたのは夜半だった。自分にも聞こえるほど息の音が荒い。肺が押し潰されたようで息ができない。身体がしなって激しく咳きこむ。
「駄目だっ」
彼が覆いかぶさってきて、背中をさすっている。喉の奥から塊がせり上がってきて、喉がつまる。
「かっ・・・ア・・」
かろうじて出せたのはその声だけだった。
「オスカル!!!」
目の前が暗くなる。声も・・・。
静かだった、物音もしない。ゆっくりと目をあける。外の星が見える。胸苦しさはもう、ない。どうして?
顔を横に向ける。傍に彼が横たわっていて、口元が血で染まっている。彼が私の詰まった血を吸い出したのだと分かる。
「・・アンドレ」
彼の頬に触れる。彼は目をあけない。同じく血で赤くなった彼の冷たい左手を握る。右足に手を伸ばしてさする。
「アンドレ・・・・」
どうして、どうして・・・どうしてっーーーーー!!!!
その時、わかった。彼が私の命を痛みを死を、その身に引き受けていたのだ。あのバスティーユの日に尽きるはずだった命、男に襲撃されたあの時の傷、喀血で失われるはずだった私の命の火。
それを身代わりとして、彼が全部。
これは神のいたずらか?何故私ではなかった、何故彼でなければならなかった?彼が私を愛したから、彼が私の尽きる命を救ったから。消えるはず命の代わりに、その身を差し出した。
これが、このようなことが、神のなさりようだとでも言うのか!!!
私は動かない彼にキスをする。唇で血をぬぐう。左手の薬指にもキスを。右足を手のひらでつつんで暖める。
もう、痛くはないだろう。私も、もう苦しくない。だからずっと抱きしめているよ。お前の胸に顔を埋め、お前の香りをかいで、左目に、左手に、右足に、お前の全てにキスをしよう。痛みも苦しみも愛も、命も、分けあおう。
離れないでいて・・・このまま、永遠に。
ひとくみの夫婦と背の高い男が訪れた時、彼らは静かに微笑んで抱きあっていた。三人は彼らを花で埋めた。遠く都では、まだ血が流されていた。
END