ーーー約束を果たしに参りました。
名前を告げない来客の言葉。取り次いだ従僕に訊けば、少し古いなりでフランス訛りがあるという。
「書斎に通してくれ」
あの国の言葉。むろん故国でも聴くことはある。耳にするたび、心に亀裂の入る言葉。
「お久しぶりでございます」
入ってきた老人は知っている顔だった。二度と会うことはないだろうと思っていた。
「・・ジャルジェ将軍」
「もう、その名で呼ばれることもありません」
古めかしいアビを着ている老人。あの時代あの国の、その言葉で話す男。私はめまいがした。ここは故国で、フランスではないのに。
「亡命されていたのでは」
「あの計画の後、妻のいたオランダへ。心労からか妻が病がちになり、先日身罷りました」
「それは・・ご心痛でしょう」
「大きすぎる悲しみは、心身を灼くものだと知りました。子に・・先立たれたなら、尚更」
「先立たれる・・」
暖炉の薪が落ちた。揺れる炎が照らす顔は、以前の厳格な武人の面影には遠かった。最後まで王家に忠誠を尽くし逃亡を計画した。しかし全ては水泡にきした、その男。
「それ故に、約束を果たすことが遅くなりました。幾重にもお詫びいたします」
「約束、とは」
「王妃様との」
ブランデーを取ろうとした手が止まった。
「それは・・」
「アントワネット様です」
その名を聞いた瞬間、私はこの部屋にいなかった。彼の国、あの冬の夜に戻ってしまった。冷たい冬のテュイルリー宮殿、その二月。
「貴方様へ、私の手で渡して欲しいと託されました」
_________いっさいが わたしを
「何故だ・・」
________御身がもとへ 導く
「フェルゼン伯」
「どうして・・私の元へ戻ってきた。どうして最後まで彼の方の指にいなかった。私が・・私の片見としてお渡ししたのに」
「この言葉が、ご自身にとって真実だったと。それを伝えてくれと申されました」
真実・・私が彼の方を愛したこと、彼の方が応えてくれたこと。それが私たちの真実だった。だが、その真実が彼の方を追い詰め、命までも・・。
「どうして・・私が、私こそ死ぬべきだったのに。あの日、ヴァレンヌでテュイルリーで、あの時に」
「伯爵、それは私も同じです。死ぬべき時に死ねず生きながられることは、身を焼く後悔を背負って生きることです」
「どうやって生きろと?!私はあの日から動く砂袋と同様だ。愛する人をこの手で守れなかった、失いえない人を失って、どうやって」
「それでも、耐えて生きなければ。愛する者を、子を、亡くしたとしても」
老人の声は遠くに聞こえる。かつて力強い武人だったその声は、もうか細い。
「王妃様も娘も、生きたかったのです。でもふたりは死に、私たちは神の意思によって生かされている。生かされたからには、生きなければなりません。アントワネット様の、オスカルの、鮮やかな人生を知る者として」
アントワネット・・オスカル・・・。その名が、懐かしい言葉で聞こえてくる名前が、私の顔を上げさせた。
「私も、日々自身に言い聞かせているのですよ。娘も娘の愛した男も、妻も死んだ。愛し守った国は崩壊した。それでも生きる、生き続けなければと」
「それが・・私にも、できると」
老人の枯れた手が、私の掌に小さな指輪を握らせる。冷たいはずの金の輪は、暖かかった。
「答えはきっと、この指輪にあります」
__________私を 御身が元に 導く
生涯ただひとり、命かけて愛した私の伴侶。あの日、確かにこの腕の中にあった。そのぬくもりは、もうこの小さな指輪にしかない。
「私は使いを果たしました。伯爵・・貴方もご自身の責を果たしてください。託されたものを」
老人は去っていく。ひとり残された私は、指輪をはめた。薬指に少しきつい指輪のそこに、身体中の血が集まり、脈打っている。
生きよう・・そしていつか、必ず来る死の瞬間まで、この指輪を嵌めていよう。その時貴方の名を呼べば、応えてくれるだろうか。遥かな天上から、私を導くために。
私は生きる、その時まで。いっさいが私を 貴方の元へ導いてくれるまで。
END