「母上から話を聞いて、ずっとお前に会いたかったんだ。何時来るのか、ずっと待ってた」
階段の上から降りてきた天使は、荷物を解くのも待ちきれない様子で、練習用の剣とともに庭先に引っ張り出された。
「そうなの?」
「だって僕と同じ年頃で、剣の相手がいないんだ。父上はお忙しい、教師はたまにしか来ない」
「僕は、剣の相手だとは聞いてなかったんだけど」
「え?」
心底驚いた、という顔で天使がこちらをまじまじと見ていた。
「じゃあお前は・・剣の相手が、嫌なのか」
さっきまでの光ってるような笑顔が曇る。その表情は見たくなかった。天使なのかお嬢様なのか若様なのか判らないこの子には、笑っていてほしかった。
「嫌じゃない、よ。やってみる」
「良かった!」
光が戻る。金色のまつ毛に縁取られた、青い瞳が光る。
「さあ、行こう」
その後でさんざん後悔することになったけれど、得意げな笑顔を見るのは悪くなかった。
「僕は、オスカルが笑ってるのがいいな。今みたいに、笑っているのが好きだよ」
「会いたかった・・許されるならもう一度、触れたかった」
「でも・・私は、お前に触れる資格がない」
アンドレが彼女の頬に触れると、涙が冷たかった。だが青ざめた頬には確かに体温があった。
「罪あるのはお前だけじゃない。お前を犯し苦しめ、傷を負わせた。何より、お前の信頼を裏切った。俺も罪を負っている。その罪を・・神が赦されなくても、お前が自身を許せなくても、俺達が許されざる者でも」
背中に腕を回した。いっそう細くなった肩を抱く。彼女が身じろぎしたが、離さなかった。触れ合う胸に腕に絹地越しの熱が伝わる。耳元が吐く熱い息で湿る。幻影ではなかった、生きて熱い、そのぬくもりを。
「私は・・」
「・・お前に許されたい。俺たちが互いに罪を負い、犯した罪の重さを知っているからこそ、嘆くお前の手を取りたい、互いを許したい。許して、愛しあって・・・ともに生きられる。そう信じたいんだ」
「アンドレ・・」
弱々しくアンドレの背中に回した手に力が込められる。その手にはまだ傷がついていて、彼のシャツに血が滲んだ。
「今まで生きてきた糧は全てお前にもらった、だからここで全部返す。それでお前が生きられるなら、つかの間でも永遠にでも幸福でいられるなら」
「お前に許されて・・いいのか」
「オスカル、愛している。愛されたいから愛するのではなく、愛しているから愛されたいのでもない。ただ、愛してる。祈るように愛している。お前の幸福だけを、祈るよ」
「私も・・・愛することを、許されたい。お前の左にいて、お前が見えないものも全て伝えて、お前を幸福にしたい。ともに、生きたい」
アンドレの掌が彼女の頬を包んだ。白い指が黒い髪をかきあげ、細い傷跡にキスをする。彼の指が頬の涙を拭い、そのまま唇で吸った。黒い瞳と濡れた青い眼が交わる。
「愛している、アンドレ。ただそのひと言を、それだけを・・・伝えたかった」
口づけする二人の頭上に光が降り注いでいた。割れたステンドグラスの端から落ちる光は、彼のシャツの背中についた血を、赤く色づいた指先を、射干玉のように濡れた黒髪を、わずかに流れる風に揺れる金色の髪を、肩に、背中に、白い頬と、瞳を、彩っていた。明ける七月の夏空の、彩雲のように。
「・・天使様」
不思議に眩しいものを見るように、フランソワはふたりを見ていた。
「僕、あなたを知っていたよ。ステンドグラスの天使様は、やっぱりあなただったんだ」
オスカルはフランソワの前に跪き、その柔らかな髪を撫でた。
「そうか、君はフランソワという名前なのだね」
「母さんがつけてくれたの」
「私も同じ名前なのだよ。だからフランソワ、君に贈り物をしたい」
「なあに」
懐から小さな包みを取り出したオスカルは、それを少年の手のひらにそっと置いた。
「開けてごらん」
「・・・わぁ」
少年が小さな手で開くと、そこに光が集まった。青い宝石は揺らめいて少年の頬を青く染めている。
「すごい、とても綺麗。これはいったい何」
「生命の樹。そして・・希望だ。これは君が持っているべきものだ」
「どうして?」
オスカルは少年が彼女にしたように、優しく腕に抱いた。その香りは、とても懐かしい心地がした。
「君が生きていること、君がこれから見ること、君が誰かを愛すること、それが私と、アンドレの希望だから」
「・・アンドレと」
少年は不安げな顔で、微笑み並んで立っているオスカルとアンドレを見上げた。
「天使様、アンドレ、どこかへいくの?僕と一緒に行こうよ」
「フランソワ。俺とオスカルは、行かなきゃならないところがあるんだ。でも、またきっと会えるから」
「本当?」
「君がこの腕輪を持っていてくれたら、会いにいくよ。だから、大切にしておくれ」
オスカルは少年の細い手に腕輪を通すと、もう一度力を込めて少年を抱きしめた。
――――母さん
その腕と温もりは、失った大切な人を思い起こさせた。この腕輪を持っていたら、これを見れば、きっとまた思い出せる。
「また会おう、フランソワ」
「うん、待ってるよ」
「オールヴォワール・・フランソワ」
そうして、神父と少年は立ち去っていく二人の背中を見送った。朝の白い光の中、黒と金の影がどこまでものびている。彼らが光の中に溶けていくまで、少年は手を振り続けた。
「オールヴォワール!!きっと、会おうね」
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―――――夢を見た・・美しい夢で。目覚めた時泣いている自分に気づいた。あまりに美しい、手のとどかない夢は人を苛む。それでも、私はその夢に会えたことが嬉しかった。まだ夢を見ることができるのが。