忘れぬ雨

 

____あの道を通らなければよかっただろうか
_____あの人を愛さなければ違っていただろうか

 

「オスカル、どうしてまた、馬で行くことにしたんだ」
「次の領地まで近い。狭い馬車に揺られているより、馬の方が早くて心地いいさ」
「そのとおりだが」
「それに、お前が御者席だと話もできなくて退屈だ」
「二人だけのほうが身軽でいいと言ったのはお前だろ」
「まあ、そう言うな」
彼女が少し寂しげに笑う。俺には、馬で行きたいと言った理由も、寂しげな表情の訳もわかっている。領地の見回りは嗣子としての彼女の役目でもあったが、今回はいつもの年と少し違っていた。
「でもオスカル、思ったより雲が厚くなってる。急いだ方がいい」
「雨が?」
「いや、ここいらは去年の不作から少々治安が悪いと言う話を聞いた。あまり暗くならないうちに」
「そうか・・このあたりでもか」
不作はすぐにでも生活に直結する。土地を捨て棄民になるものが増えれば、暗い道沿いに危険が増える。そう思っている時に、最初の雨粒が落ちてきた。
「強くなりそうだ」
「急ごう、オスカル。こちらの道の方が近い」

だから、あの道を選ばなければよかった。

「どっちだ?!」
どこかで鋭い女性の悲鳴が聞こえた。オスカルはすぐに馬の首を返す。しかし辺りは雨に打たれ薄暗い。
「母さん!!」
子どもの声と男たちの怒号。その声の方で茂みが揺れている。
「止めっ・・逃げてっ」
女性の声と共に茂みから飛び出してくる子ども、その後ろを刃物を持って追いかける男。俺は馬から飛び降り子どもを庇ったが、短剣を取り出すのが遅れた。
「アンドレッ、見せるな!」
俺は咄嗟に子供を抱き抱えた。見せないように。
「ぐぁっ・・・」
オスカルに背後から斬られた男が崩れ落ちる。
「きゃぁあっ」
もう一人の男が、仲間が倒れたのを見て逃げようとしたが、捕まえていた女性の腕が絡んだのか咄嗟に動けない。怒った男が剣を振り下ろす。

ヒュッっと風切る音がし、投げられたオスカルの剣が男の腕に刺さる。
「ぐっ・・・このっ!」
長剣で向かってくる男に対して、オスカルはもう短剣しかない。このタイミングで銃は使えない。
「オスカルッ!」
「見せるなと言った!!!」
俺が立ちあがろうとした時、振り下ろす剣の懐に入った彼女が、男の喉を切り裂いた。男の最後の声は声でなく、血飛沫が上がる音だった。

降り続く雨の暗がりの中で、青い上着が真っ赤に染まっている。雨の水滴と共に、手にした短剣から血が滴っている。
子どもは真っ直ぐに母親に駆け寄り抱きついたが、ふらふらと立ち上がった母親は、恐怖に目を見開いたまま後退りし、そのまま雨の向こうへ子を連れて走って行った。

「・・・オスカル・・」
「・・見せなかったか?」
「・・・ああ」
「良かった・・・」

――ご無事で良かった
――畑を捨てて野盗になるものもおりまして
――その母子も流れものだったんですかな
――仲間割れだったのかも

領地の屋敷についても雨はやまなかった。口々に驚き世話する者たちも不安を口にする。中央にいればこのような実態を見ることは少ない。独立戦争への加担が始まってから、財政と共に国の根幹が揺れていることも。

その夜からオスカルは発熱した。雨に降られていたのだから無理もない。だが、それだけが理由では。
「オスカル・・」
目を閉じた彼女の頬に触れると熱い。息も荒い。

あの道を通らなければ良かった。せめて馬車を使っていれば。鬱々として馬車に揺られていたくない彼女の気持ちを止めていれば。戦争から戻ってこないあの貴公子のことを・・想って。
いや、俺が先に剣を抜いていれば、彼女の手は血で染まらなかった。己の手で、人を殺めるなど・・・させたくは、なかった。

七歳から剣を振い、十二歳から銃を握った。王家と国と民を守るために。それが貴族として生を受けた者の義務なのだから。そう父将軍から教わり伝えられたことに、疑問などなかっただろう。
それでも、見開かれた目。急速に縮んでいく瞳孔。血飛沫の生臭さ。倒れる体で跳ね返った泥。染み込んで落ちない血糊。何よりもあの・・母親の怯えた目。

「・・ア・・ンドレ」
目を開けた彼女の声は、いつもより掠れていた。
「薬湯を持ってきたよ、飲めるか」
「ああ・・」
上体を起こそうとする彼女の手を取る。
「・・お前の手は、暖かいな」
「今は、お前の方が熱がある。薬を飲んだらもう少し休め」
彼女の口元が歪む。
「休息・・あの男たちには永遠の」
「オスカル・・」
「わかっている。あの時の私には責務があった。しかし、あの男達だとて、だれかの暖かい手・・だったのかもしれない」
「誰だって、死にそうな女や子どもがいたら助ける。それは人間の自然な衝動だ」
「この手に感じた・・肉を、血管を切る鈍い感触。背骨の間に刃が入っていく・・あの」
彼女が落としそうになったカップを手に取り、そのまま黙って抱きしめた。背中に回した腕に、震えが伝わる。
「オスカル・・誰でもいつか、命は尽きる。それは人間だけではなく、獣も、麦の一粒も同じだ。麦は次の実りになり、獣の骸も森を育てる。人の命も・・どのように生き、どのように死んだとしても。どこかへ・・繋がって還っていくんだ」
「そう・・なのか」
「そうだよ、だからもう少しおやすみ。全部、眠りの中へ」
「でもアンドレ、忘れられない。この手に感じるんだ。この感覚を、忘れることなど決して・・できない」
「それでいい・・忘れなくても」
俺を不思議そうに見上げるオスカルの、蒼い眼。この色が曇ることなど、絶対にさせない。
「お前が感じ、背負うものは俺も背負う。お前が負っているものを同じだけ。お前の、傷も、愛も」
包んでいる彼女の身体から力が抜けていく。眠れる薬を入れておいた薬湯が効いたのだろう。
「・・・アンドレ、では・・今度はお前の・・負っている・・・もの・・を」
_______聞かせてくれ

そのままオスカルは眠りについた。外はいつの間にか雨が止んでいた。

 

忘れて欲しいと願っていた。でも俺自身が何一つ、忘れることも手放すこともできはしないのに、無駄な足掻きだ。忘れないまま、傷が疼くまま、人は生きる。
お前が忘れることが出来ないなら、俺も忘れない。お前が手のひらに赤い染みを見るなら、俺がその手をとる。

背負おう、命尽きるまで傷も、愛も。でもそれは、お前に全ては話せない。俺の傷はお前が負わなくていい、いつかこの喉を破る日が来るかもしれないけれど・・それまでは。

 

 




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