―――――夢を見た・・美しい夢で。目覚めた時泣いている自分に気づいた。あまりに美しい、手のとどかない夢は人を苛む。それでも、私はその夢に会えたことが嬉しかった。まだ夢を見ることができるのが。
ふっ、と、熱い息が耳元にかかる。
――――アンドレ、私は今、何者でもない。古い世界は失われてしまった。どこにも属さないということが、これほど恐ろしいことだとは知らなかった。立っている地面が割れ、裂け目に落ちてしまいそうな不安。母の胎内から生まれ出た時、恐ろしさに泣き叫んでいたことを思い出す。
私は癖のある前髪をかきあげる。閉じた瞼の上の白い傷。
――――暗く暖かな世界から、突然明るい喧騒の中にほおり出された。あのときも今と同じように怖かった。馴染んだ暗い世界に戻りたいという気持ちと裏腹に、見えない目を通しても感じられる外界の明るさに、かすかな希望を抱いた。
長い指先が、私の頬に触れている。繊細で長いその指が。
―――数十年、私を包み、育んできた世界に戻りたい。父と母と、自分が見ている世界が全てだったあの頃に戻りたい。新しい世界を前にして、私は怯み、怯えている。だが。だが・・・同時に・・・
ふわりと、羽が触れるようなキス。そのまま深く合わさる。舌を絡め、背中に回した腕に力を込める。
―――身体中を駆け巡る、これは何だ。喜び、身が震えるほどの歓喜。誰でもない自分自身の意思でこの場所に立っていることの喜び。いまだ名づけられる前の、何者でもない存在になったことが――これほどの歓喜を伴うとは知らなかった。
命の消えかけている身体を抱えて、火が燃え上がる国にいるというのに。これほどの喜びがあるのが信じられない。
指先が、髪を項を耳元を探っていって、首に脈打つものを確かめるようにしばし止まった。胸に掌をあてて、皮膚の下に脈打つ鼓動を感じていた。ずっと触れたかったのは・・確かめたかったのはこれだった。
生きて脈打つ心臓、血管を流れる血、体温、息の湿り気、髪の匂い、滑らかに指のすべる皮膚。触れてなぞって抱きしめる、確かめる、彼が此処にいることを。全身で感じて受けとめる。皮膚が逆立って汗がどちらのものともつかなくなる。息と匂いが混ざり合う。身体の中心に伝わる動きに意識が遠ざかっていく。
――――アンドレ、お前がいるから生きていける。お前がいるから、生きていきたい。お前だけが・・私の伴侶だ。
声になっていたのかいないのか、もう判らなかった。彼が耳元で囁いた言葉も届いたかどうかわからなかった。意識がはじけ、皮膚が裂け、お互いが無数の汗の玉になって、宙に飛び散ってしまう。
――――愛してる、愛している。生きよう、ふたりで。
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