エピローグ〜希望 Ⅰ

親愛なる神父様

二日前、パリに着きました。この都は今ナポレオン戴冠の熱狂に包まれています。花火があがり、人々が笑い騒ぐ声は深夜まで続いていました。誰もが頬を紅潮させ、古いワイン樽も全て開けられ皆の喉を潤します。男たちは乾杯を繰り返し、女たちはありとあらゆる場所から花を集めて、喜びの日の準備をしています。熱病です。皆が皆、これから約束された素晴らしい未来に酔っているのです。
僕とて例外ではありません。路上で見知らぬ若者がいきなり僕の肩を抱き、欠けたカップに溢れるほどの酒を注いでよこしました。それからどれほど何を飲んだのか覚えていません。様々な場所で人々の渦に巻き込まれ、すさまじい頭痛とともに気が付いたときは朝になっていました。財布が無事だったのはほとんど奇跡だったでしょう。皆散り散りに家に帰っていきましたが、顔にはまだ歓喜の余韻が残っていました。

すみません、興奮のまま書き散らしていることをお許しください。幼いとき暮らしていたことはすでに遠い記憶でしかない僕にとって、この都の喧騒と熱気は余りにも強く、距離を置くことなどできそうにありません。

 

神父様

今日。いえもう昨日になります。僕はこの眼でナポレオンを見ました。ほとんど目の前を通っていったのです。伝え聞いたところでは、とても小柄な男だとのことでしたが。とてもそうは見えませんでした。物語のどんな巨人より大きな人でした。

広場に差し掛かると、窓という窓が開かれ人は溢れんばかりです。道にひしめき合った人々は我先に皇帝に近づこうと押し合っています。歓声があがり、紙吹雪や花が降り注ぎました。皇帝は立ち上がり、賛辞に手を振って笑顔で答えました。どよめきは地を揺らし、皆感極まって泣き出していました。
ナポレオンが・・我らのナポレオン。強く輝かしいフランスの新しい皇帝。若く強い彼がいればフランスの栄光は果て無く輝く。オーストリアもロシアも彼の力の前には敵ではない。素晴らしい我がフランス、我が皇帝。

人々の歓喜は頂点に達しています。まるでこの日を境に悪いことは全て終わり、善きことのみがおこると信じているように見えました。この国の未来は素晴らしいに違いない。皆がそう思っていますし、今は僕も同じです。この日この時に未熟な僕をパリによこしてくださった神父様のお心に感謝します。栄えある歴史の瞬間にその場所にいられたことに。
わかっています。僕は戴冠のパレードを見るためにはるばるパリに来たわけではないのです。未熟な僕に神父様が託してくださった大切な役目を果たすために、少し冷静にならなくてはなりません。手紙を出した店からの連絡はまだありませんが、この騒ぎですから待つことにします。

 

神父様

ここ数日、街の興奮も次第におさまってきたようです。外に出ればまだ酔った人々が歩き回っていますが、なるべく金を使わないよう部屋に籠り待っていました。
三日後に店から連絡が来ました。明日には神父様の手紙と、もうひとつ大事な大切な物を持って行きます。僕のような経験のない若者を信頼してくださった貴方のためにも、与えられた役割を果たせますように。
でも、本当は落ち着かない気持ちでいっぱいです。この腕輪のことを訊ねられたら、僕は店主に納得してもらえるように話せるでしょうか。僕の・・とても大事なあの人の思い出を。
今晩は月がとても明るく、狭い部屋の窓も白く浮かび上がっています。窓枠を壊さないよう慎重に開けると、冷気が入ってきました。熱気と興奮で忘れていた冬の寒さを感じながら、僕は考えていました。もう少し起きていて、あの人のことを、忘れ得ない二人のことを思い出すことにします。

今でも、あの人の涼やかな声が聞こえてくるような、そんな夜ですから。

 

神父様

何から書き始めていいのかわかりません。あまりに長い一日でした。思いもかけないことで・・まだ混乱しています。冷たい風で落ち着くために窓を開けたままこれを書くことにします。
同じ部屋にいた人々はそれぞれに帰っていきましたので邪魔は入りません。僕もこの手紙を書き終わったら帰ります。でも手紙のほうが早く着くでしょう。一刻も早く神父様にこのことをお伝えしたいのです。

今日僕は時間よりとても早く部屋を出ました。宿の主人に場所を尋ねると彼は怪訝そうな顔をしましたが、親切に道を教えてくれたのです。小さい家がひしめく宿の界隈から遠く、その店は静かで重厚な建物ばかりがある地区にありました。たどり着いたその店の前に来ると、僕は立ち竦みました。革命の嵐に荒らされたこともあるはずなのに、どっしりと重く磨きあげられた扉は重く、長く地方で暮らしていた僕が怯むに十分でした。
本当にここで間違いはないのか、随分と迷っていたと思います。上着の内に大事に持っていたものに手を置いて、ようやくノックすることができました。きしんでゆっくり扉が開きました。

白髪の上品な老人が、僕が何かを言う前に
「お待ちしておりました」
と低い声で招き入れてくれます。館の天井は高く中は暗く、暫く目が慣れませんでした。
昼だというのに老人はカンテラを手に、奥の階段へと進んでいきます。シンとして物音もせず、ケースは全て布がかけられ、彼と僕以外誰もいないようでした。二階へ上がり、幾つかある扉の最奥のそれが開き、老人が立ち止まって僕を待っています。

無言で促されるまま入ると、廊下より一層暗い部屋はカーテンが降ろされたままでした。灯りも火の気もありません。僕は戸惑いました。時の止まった洞窟に迷い込んだような心細さでした。
やがて暗さに慣れてくると、カーテンの前に何かが、いえ誰かいることに気づきました。僕はその時、声は出さずともぎくりとして震えたことでしょう。椅子に深く座ったその人は生きている人間のように思えなかったのです。座ったまま息を引き取り葬られた人ではないか。ひどく罰当たりな考えがよぎりました。
「ーーーー様」
店の主人が声をかけると、その人は椅子のひじ掛けを握り、骨をきしませるように立ち上がりました。

 

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