エピローグ〜希望 Ⅱ

 

「火は要らない。彼が寒くなければの話だが」
その人はもちろん生きた人間です。痩せてはいても腰も曲がらず、声は低く深くよく響きます。座るよう勧められ、向かい合った椅子にぎこちなく腰かけました。店主はわかります、でもこの人は誰なのだろう。先ほど呼ばれた名前も覚えのあるものではありません。どう問いかけていいかわからず黙っていると、店主がその人と何か小声で話していました。
「フランソワ様、ようこそおいで下さいました」
そのような言葉遣いをされたのは初めてです。店主は僕が昔からの上客でもあるかのように話しかけ、手紙にあった腕輪を見せて欲しいといいました。その時老人が少し震え身を乗り出しました。雰囲気に圧倒された僕は緊張しながら、上着の裏から大事に包んだそれを、卓の上に取り出します。

粗末な布の袋と飾りのないハンカチを開くと、その腕輪は灯りのない部屋の中で煌いたように見えました。何度も見ていたはずですが、パリに来てからは万が一を考え片時も包みから出さず身に着けたままだったので、広げたときは僕でさえ一瞬息をのんだのです。
少し鈍い金の台に、大小とりどりの宝石が埋め込まれています。手首を取り巻くようにうねった枝の中に、ひときわ大きな青い、吸い込まれそうに輝く石。どのような技巧なのか青い石は揺れるように枝に囲まれているのです。

暫くは皆無言でした。老人が枯れた手を伸ばして触れようとしたまま逡巡し、再び椅子にもたれ掛かり深く息を吐きました。
「・・・生命の樹だ」
「ご存じなのですか?」
僕が驚いたのも無理はありません。その名を知る者は僕と神父様とかの二人だけのはずです。
「わたくしの工房で作らせていただいた物なのですよ。変わらず美しい・・あの頃と」
店主の言葉は震えていました。老人もうなだれ掌で顔を覆っていました。僕はようやくこの店に手紙を出すよう伝えられた意図を知ったのです。店主は腕輪を作った、では向かいにいるこの人は。
「手紙にあったが、これは譲られたものなのだね」
「ええ」
僕は言い淀みました。どこから話したら良いのだろう、これを託してくれたあの人のことを。

出会ったとき僕は七歳だった。命を救ってもらった。僕の髪を撫でて腕に−その頃の僕の手は細く小さい子どもの腕だったから腕輪は大きかった−通してくれた。凛とした声で”君にこれを託す”と・・。あの人は泣いていただろうか、その時アンドレはあの人の傍にいた。生まれる前からずっとそうしていたかのように、優しく。

腕輪を手に取り僕は思い出していました、話し続けました。今この時でも、冷たい屋根裏部屋にいてさえも、あの人たちのぬくもりが蘇ってきます。会ったのはほんの数度だけれども忘れえるはずはない。
パリを離れ、ノルマンディーに移り、すさぶ風の音を寝台で聴きながら僕はあの人を偲んでいたのです。神父様が大事に預かっていてくれた腕輪の入った戸棚を見るたび、ひとりきりの時こっそりと出して触れるたび。僕はひとりではない、あのふたりが愛していてくれたのだと思えたのです。

僕は長い間話していたように思います。でも実際にそれほど時間はかからなかったでしょう。僕が知っていることは断片的でしかありません。逆に僕は聞きたかった。どうしても知りたかった、ふたりのことを。もしかして神父様はご存じだったのでしょうか。ふたりはどこへ。幸福でいるのか。いえ、生きているのか。
僕は知らずあなたに問いただすこともできなかった。ふたりのことを話すとき、あなたの顔に悲しみの影があるようで。

僕の話が終わってからも、向かい合った老人は黙ったままでした。うつむき目頭を押さえ、泣いているのかと思えましたがそうではありませんでした。
「あれが、最後に君にこれを渡したのだな」
「君に託す、君が生きて見るもの全てが私たちの希望なのだと。そう言って微笑んで額にキスを・・そのまどこかへ」
「そうか・・」
「あの人達はどこへ行ったのですか。きっともう一度会えると言ってくれました。僕が望むなら会えるだろうと。僕はふたりに会いたい。会って何故僕にこのような素晴らしいものを託してくれたのか。どうして幾度かしか会っていない僕が希望だったのか。彼らが−−生きているのですか。会いたい、会えるだけで良いのです。何も言わずとも」
「・・フランソワ」

呼びかけられて僕は言葉を失いました。その声音はあの人にとても良く似ていたのです。僕の眼を見てこんなふうに呼んでくれた。
「多分君がその名前だったから。いや、その名でなくとも君が未来を生きる者だからだ。あれは過たず、最も相応しい者にこれを託した」
「その青い石は、希望と名付けられています。将軍が手に入れられ、工房の才能ある若い職人が磨き上げ腕輪を作ったのです。生涯で扱ったものの中で最高の出来でした。奥様にお渡しするとき、喜びに打ち震えたことを今でも覚えています。その職人も革命で命を落とし・・しかし再び目にすることができました」
暗い部屋の中にともすれば沈み込んでいく二人の老人の言葉に僕は呆然としました。

「あれは・・いつでも私の誇りであり喜びだった。そして何より、私の限りなく愛しい娘だった。この罪深い老人に思い出させてくれた君に感謝する。ありがとう」

僕は本当はわかっていたのです。彼らがもういないことを。ふたりが教会から去っていく時、僕は呼び止めたくて、でも、できなかった。

それから僕は、長い物語を聞いていました。眼前の老人がまだ若かった頃を、愛しい娘が生まれた夜を、その人が如何に、熱く美しく、薔薇のように生きたかをーーー。

 

気づけば夕刻になっていました。礼を言い、辞そうとした僕の声は涙で震えていたでしょう。教会の孤児たちの為に大切な腕輪を手放すのは寂しいけれど、あの人の最後の想いを返せることは喜びでした。しかし老人は腕輪を渡そうとする僕を止めました。
「いや、それは君が持っていてくれ」
「そんな。僕はこれをお返しするために来たのです」
老人は、ゆっくりと立ち上がりました。そして僕の掌に金貨と腕輪を置き、手を握ってくれました。あの日の、あの人のように。

「希望とは・・常に未来なのだ。過去ではない。あれがそれを知っていて、君に託したのだから」

 

神父様、僕はここに告白します。数日前、歓喜に揺さぶられた僕は、このままパリにとどまり軍に入ろうと思っていました。育ててくれたあなたや、ノルマンディーで待っているアンヌを置いて。
この栄光の時代に生きているのだから、その一翼を担いたい。凱旋し歓呼の声に迎えられたいと。
でも、僕は帰ります。あの人がアンドレが、信じ愛してくれたあの頃の僕に、還って。そうしてこの腕輪を、僕たちの子のまたその先へ。あの人の物語を伝えていくために。
アンヌへ伝えてください、心から愛していると。アンヌ、もうすぐ帰るよ。共に未来へ―――生きよう

 

 

神父は手紙を置き、窓の外を見た。澄みわたる青空の下、麦畑の向こうからアンヌが手を振っている。彼方から温かい風が吹いてくる。そうして目を閉じ、あの日のことを思い起こしていた。二人が去っていくのを見送ったあの夏の日のことを。
―――私はかつてパンドラの箱を明けました。憎悪と苦しみが我が身を食い尽くす音を聞いていた。そのような絶望は、決して子どもに与えてはいけない。
私たちは生きて帰れないかもしれません。それでも、国が瓦解するとしても、世界が明日終わるとしても、私は

 

――――希望の種を 蒔きたい

 

神父は杖をついて外へ出た。アンヌに手紙を渡すために。未来を生きるもの達を、祝福するために。

 

END

 

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