・・・様、神父様。
声がする。もう夜が明けているのか、瞼の裏に薄く光が見える。
「・・神父様」
「ああ・・アンヌ。私は・・・眠っていたのかい」
「ええ、随分長いこと眠ってらしたんですよ」
「そう・・か」
「すぐお食事をお持ちしますから」
「ありがとう」
アンヌが出ていくと、息をついて天井を見上げる。この家に来た時から、ずっと眺めていたそれを。もうすぐ、見られなくなるのだろう。
窓の向こうから風が入ってくる。冷たく強い寒風ではなく、優しく頬にあたる。もう春の風になっている。おや・・私はいつから眠っていたのだろう。窓の外に雪もない。暖かなノルマンディーではあまり積もらないが、今年の冬はいつになく雪が降ったはずなのに。
私は体を起こす。寝台のそばに立てかけてあった、杖をついて立つ。ごとん、と床に杖の当たる音がする。我が師も晩年は白濁した目で、杖をつきながら手探りで歩いていた。
――クエリー、忘れてはならぬぞ。
あの力弱く深くなった声。いままで忘れていたのだろうか。
――神の慈悲はあまねく人に与えられる。だが、子どもは・・子ども達は、その慈悲すら知らず生きる者もいるのだ。戦争と貧困が長く続く国で、子ども達は打ち捨てられる。もっとも弱い存在こそが、もっとも神の声に近い。それなのに、誰も手を差し伸べようとしない。子どもには決して・・。
師のあの声、低く・・深いあの。
――子どもに絶望を与えてはいけない。
いや、この声は違う。誰の声だろう。
――憎悪と苦しみが我が身を食い尽くす音を聞いていた。そのような絶望は決して子どもに与えてはいけない。
覚えがある。深く低い、静かな悲しみと・・熱い決意を秘めた声。何百人と告解を聞いた中でも忘れ得ぬ、美しい声。私はゆっくり棚に近づき、一番上の引き出しのその奥の板を外した。古びたハンカチに包まれたものを取り出す。
ああ、そうだ。きっと、あの時の声だ。私は寝台に腰を下ろし、ハンカチを開かないまま手のひらで包んでいた。
――未来が無いと思えた時、人は死ぬんです。自らには明日がある。明日も昇る太陽を見て、一日が始まると信じられる。そうでなければ人は生きながら死んでしまいます。
――私はかつてパンドラの箱を明けました。憎悪と苦しみが我が身を食い尽くす音を聞いていた。そのような絶望は決して子どもに与えてはいけない。
――たとえどれだけ遠い未来だとしても、獲得するのにどれほどの苦痛を伴う明日でも・・あると信じられなければならない。だから、私は戦います。彼と一緒に。
――神が、私も・・彼の罪も赦されるというなら神父様、どうかあの腕輪を一助にして、あの子を子ども達をお守りください。絶望ではなく、希望を糧にできるように。
「守る・・私は守れただろうか」
「守っていただきました」
振り返ると盆を持ったアンヌがいた。
「フランソワが亡くなる時も、ずっと付いていてくださって。終油を授けられたあの人は安らかでした。それに何より、あの子に素晴らしい名前をつけていただいた」
「名前・・」
「そうですよ、神父様が目覚められたと知ったら喜びます。もうすぐ帰ってきますから」
「母さん、薪は運んでおいたから」
扉の前にそう呼びかける黒髪の青年が。
「神父様、お目覚めになったのですね。良かった」
「ああ、アンドレ。今日もフランソワに字を教えにきてくれたんですか」
「・・・そうです。お待たせしてすみません」
「いいのですよ。フランソワだけじゃなく皆楽しみにしています」
「俺も楽しいです、それに神父様とお話しするのも」
「良かった・・アンドレ。元気で・・・生きていて、本当に」
そうか、生きて帰って来られたのだ。あの人も・・・フランソワに教えてやらなくては。ずっと待っていたのだから。
「フランソワ、どこに行ったのかな。せっかくアンドレが・・・」
「俺が呼んできます。神父様、どうぞ食事を召し上がってください」
「ああ、そうだね。ああ・・あれ、私は何を持っているのかな」
アンドレが私の手の中の包みをそっと受け取った。
「神父様、これは・・これはとても、大切な物です。あなたにも、父さんにも母さんにも、皆にも。もちろん、俺にとっても」
「おやアンドレ、泣いているのかい。何か心に苦しいものがあるなら告解なさい。でも君は、告解したがらないのだったね」
「何も・・苦しいことはありません。あなたがこうして生きて・・それだけで」
「そうか・・そうか、君は。ええと、誰だったかな」
「・・アンドレ、です。あなたに名付けていただきました」
名前・・あの人の名前は、なんだっただろう。声は覚えているのに。あの人の・・・。
・・・神父様、お疲れになりましたか。さあ、横になって。
誰かの声が遠くに聞こえる。春の風だ。あの人の名前・・名前。強くて美しい名前だった。
「腕輪・・あの、腕輪を」
手のひらにひんやりとした感触がある。薄く目を開けると、青と金色の光が見える。雲間から降りてくる天上の光。
―――これは生命の樹
金色の光が、割れたステンドガラスから降り注いで。思い出した。あの人の名前は・・神と、
―――そして、希望だ
神と剣、その名に相応しい、強く美しい人。
「オスカル・・フランソワ」
神の光に包まれるーーー希望の光に。