世界が明日終わるとしてもー23

 

さよならを言い、お互いに背中を向け立ち去る間、人は少しだけ死ぬ。相手と過ごした時間、交わした言葉、感情、それは去ってしまい戻らない。立ち止まって振り返り、遠ざかる影を見送る時、互いの葬列に加わっているのだ。

 

「覚えておられますか。16年前、パリで」
「あの日の事かしら」
「素晴らしい青天でした。王妃様に恋をしている数十万人の国民がいると」
「喜びに胸が震え、涙したわ。もう、遠くなってしまったけれど」
「あの日のお心を、今一度思い出してください。民衆は貴方を愛していた。まだ遅くはないのです」
「オスカル・・」
二人向かい合っている宮殿は静かだった。さんざめいていた人々は、何処へ行ってしまったのか。
「人の心は移ろいやすく、愛も消えていくものでしょう」
「もう民に対する、愛は無いと」
「この国を愛そうと努めました。子ども達の祖国ですもの。美しい森、肥沃な大地、其処に生きる人々を愛そうとして・・でも、終わってしまった」
「愛の片鱗すら、残っていないのですか」
「貴方はそれでも、今でさえ、私を愛してくれているのね」
「はい・・」
「私も、貴方のようになりたかった。誰かを、愛し赦し続けられる人間に」
「私はそのような人間ではありません。罪深く・・あまりにも傲慢でした」
「罪を犯さない人間など、いないでしょう」
「・・・王妃様」

オスカルは顔を上げた。薄い空色の瞳と、深海の碧い眼が、互いを見つめた。
「軍をお引きください。王家が国民に銃を向けてはなりません」
長い沈黙があった。六月の夕暮れが向かい合った二人の女性の半身を紅く染めている。西風が枯れた葉を散らし、二人の足元に渦が巻いた。
「それは・・・・できません。オスカル」

オスカルは踵を返した。
「オール・・ヴォワール」
風に乗って背中に届いた言葉。だがオスカルは、決して振り返らなかった。

 

オスカルは馬車の振動に身を揺らしながら、目を閉じて上を向いた。深く息を吸ってから呼吸を止める。感情を、想いを溢れださせないために。だが、閉じた眼の裏に記憶は鮮やかに蘇ってくる。馴染んだこの道、馬車の振動。お忍びでパリに向かうために、何度も通った。

――オスカル、私はこの時間が一番好き。私を縛るあの宮殿から離れて、パリの灯りへと進むこの時間。もう見えてくるわ、あの灯りが私を解放してくれる。
馬車が走る速ささえもどかし気に外を見る、その横顔は若かった。若くして肩に担った重責は、軽やかな魂の女性には重かっただろう。踊り疲れ帰る時、遠ざかる灯を寂しげに見やっていたその人は、灯りの届かない暗がりに住む人々には気づかなかった。一度たりとも。

しかしあの方もこの国を愛していたのだ、少なくとも愛そうと努めていた。それは知っている。だからトリアノンに田園を作った。
――此処には、フランスの花と麦と風がある。この美しさを私は愛している。故国はすでに遠く、決して戻れない。子ども達はこの国が故郷。ならば私自身の故郷を、帰る場所を作らなければ。
その横顔はもう若くなかった。あの時確かに、フランスを愛していたはずなのに。

判っていた。愛は終わる。人と人との愛、民と施政者との愛、国への愛。どのような愛も、いつか蜜月は終わる。空があの頃と同じように青くても、その下で生きる人間が変わっていく限り、生まれた愛はいつか、消え去るのだ。

私はこうなった今も、あの方を愛しているのだろうか。守るべき相手と定められ、忠誠を誓ったあの女性を。私たちの間に流れた長い年月、信頼と愛は確かにあった。あの方が言ったとおり、今でも愛している。愛していながら、私は裏切る。守るべきものが違ってしまった、ただその為に。

―――オール ヴォワール
背中に投げかけられた言葉。もう二度と会うことはない、私達はもはや敵なのだ。それを判っていて。また会いましょう、何処かで何時か、生きていればまた。あれは・・あの言葉は。

 

その時、馬車が激しく揺れた。御者の悲鳴が響く。
「貴族だ!貴族の馬車だぞ!」
オスカルは剣を手にかけ、外を見た。謁見の為の煌びやかな馬車は、すでに群衆に取り囲まれていた。
「貴族を引きずり出せ」
「殺しちまえ」
馬車が揺すられる。武器を持っている者達は多くない、突破できるだろうか。迷っている時間はなかった。馬車の戸を勢いよく開け、前の群衆が一瞬怯んだすきに飛び越える。姿勢を低くし、突進してくる男の足を払った。背中に向かってくる者は、剣の柄で突いた。振り下ろされる棍棒がこめかみに当たる。頭がふらついた一瞬引き倒され、みぞおちが蹴られた。意識が遠ざかる。

―――あれは愛しい王妃の、許しの言葉だった。私の裏切りをわかっていて・・アンドレ。
拳と棍棒が振り下ろされ、痛みしか知覚できなかった。かろうじて見えていた光が薄れていく。

―――アンドレ、お前は・・・私を。
「殺せ!」
「吊るせ!」

 

――――私を・・赦してくれる・・だろうか

 

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