世界が明日終わるとしてもー22

扉が開き王妃が入ってくる。国王は安堵の表情を浮かべた。
「ジャルジェ将軍あなたのお心はよく分かりました。しかし今はその時ではありません」
「その通りだ。将軍、武力を使うのは最後の手段だ。一発の銃声が全てを変えてしまう。その前にまだ取るべき方法がある」

「・・・・仰せのままに、陛下」
肩の荷を下ろし喜色を浮かべる貴族達に背を向けて、将軍は部屋を辞した。呼び寄せた副官に命令を下し、伝令を受けた兵士は走る。

「オスカル・フランソワ・ジャルジェ准将には、なお一層の王家への忠誠を期待するとのことです」
「・・私の処分は」
「衛兵隊士達がアベイ牢獄から解放された今、貴官の罪状も王妃様より不問にされました」

オスカルが獄を出ると、日差しが眩しかった。細めた眼を開くと副官とアランが立っていた。
「隊長、よく・・ご無事で」
「ダグー大佐、礼を言う。アランも、良く耐えてくれた」
「フランソワ達はだいぶまいってるんで止めたよ、俺が代表だ。隊長に助けられるのは二度目だな」
「私の力ではない」
「そうだ、民衆の力だ」
「隊長、このまま館にお帰りになり少し静養してください」
「いや、いい。疲労が溜まっているのは兵も同じだ」
「指揮官が倒れたら兵は死ぬ。まず休んじゃどうだ。顔が真っ青だぞ」
その言葉は前にも他の男から聞いた、思い出しながらオスカルは馬車に乗り込んだ。

「・・・私の妻は数年前、肺の病で死んだ」
遠ざかる馬車を見送りながら、副官が呟くように言う。
「大佐、まさか」
「でなければ良いと思っている。しかしあの方は血を吐くまで先頭に立つだろう」
アランは考え込んだ。誰も隊長を止められない、もし止められる人間がいるとしたら・・・ひとりだけ。
ーーあいつ、何処にいるんだ。

オスカルが暫くぶりに帰った館はひっそりとしていた。当主は軍務に忙殺され宮殿から戻らず、その妻もいなかった。
「旦那様が、当分オルタンス様の屋敷に行くようにと。奥様は納得されなかったのですが」
老いた乳母が当惑したように告げる。オスカルには父将軍の意図が判っていた。パリやヴェルサイユから離れた地方へと避難させる。中央での騒乱あるいはーー内戦を予期しているからだ。
オスカルは冷えた寝台に身を横たえ、窓の外へ目をやった。夏の長い一日がようやくおわろうとして、傾いた陽がガラスに反射している。部屋の中に、窓際の白薔薇の香りが密やかに漂っている。夫人が慈しんで育てていた花だった。ワインを持ってきた乳母は、夫人が屋敷を離れる時、娘の部屋に毎日活けておくように言い残したと答えた。

オスカルはふと、花の置かれた卓の引き出しに目を止めた。開けると、白い織模様のハンカチの中に腕輪が入っていた。愛の証しの腕輪を包んだ白い布には、幾重にも咲く薔薇が刺繍されている。
「・・・母上」
薔薇の上にぱたぱたと、数滴の露が落ちた。陽はもう西の空に沈み、星の出ない長い夜がくる。

「ロベスピエール先生、聖職者の切り崩しはほとんど成功しました。明日には国民議会と合流します」
「彼らは機を見るのに敏だ。民衆の支持がどこにあるかわかってる。教区の信徒に襲われる愚は犯したくないだろうからな」
「あとは貴族階級だけですが」
「啓蒙思想に染まった進歩的な人間、それと体面より利で動く現実的な貴族だ。まずそこを狙う。聖職者のようにはいかない、少しずつ崩していくんだ」

「先生はこう言っていたんだがね、ベルナール」
治安のよくない街区の酒場では、革命家が密談していても気に留める者はいない。
「何が言いたいんだ、サン・ジュスト。君はロベスピエールの腹心だろう」
「そうだよ、この世の秩序を破壊するためには、理想に燃えた簒奪者が必要だ」
「・・失礼する」
「そう怒るな、座りなよ。僕が破壊を欲するからと言って、君と利害が反するわけじゃない」
「どういうことだ」
「切り崩しなんて生温いことでは駄目だ。崩壊は一気に、爆発させなければならない。人心と民衆の力だ、アベイを解放させた君なら出来るはずだ」
「何を考えている」
「ロベスピエールの半歩先を行く、まずはネッケルだ」
「なんだと・・」
「起爆剤さ、導火線に火をつけてやる」
端正な男が唇の片端をあげて笑う。ベルナールには死の大天使の吹くラッパの音が聞こえた気がした。

「私も発つつもりだったのです、しかし」
「フランソワが?」
「ええ・・」
医者には、と神父に言いかけたアンドレは言葉を止めた。フェルゼン伯爵の援助があると言っても無尽蔵ではない。子ども達を連れた旅と、着いた先で生活を安定させるには、時間も費用も掛かる。
アンドレの隣室が空いたので、子ども達は其処でひっそりと暮らしていた。前の住人は早々にパリを逃げ出していた。
「フランソワ・・」
呼びかけられて少年は目を開けた。その目は深い青だった、彼は胸が痛むのを感じた。
「アンドレ、神父様。大丈夫、もうだいぶ楽なんだ」
「そうだね、でも無理しちゃだめだ。旅は長い」
彼が少年の頬に手を当てると、汗で湿った。しかし息遣いは苦しそうではない。
「アンドレ」
フランソワが上掛けから手を伸ばして、彼の腕を取った。
「僕たちと、一緒に来てはくれないの」
痩せた腕と、か細い声。教会が破壊され、慣れない環境で身を潜め暮らしている。幼い者にはどれほどの負担か、容易に察せられた。
「・・薬をもらってくるよ。もう少し寝ていなさい」
少年は彼の手を放して、唇をかんだ。
「天使様・・」
独り言にアンドレが振り返ると、フランソワは窓の外を見ていた。
「天使様が、いてくれたらいいのに。強くて・・・とても綺麗だった、あの」
フランソワを助けた、教会の大天使に似た人。それは誰だったのだろう。面影を追おうにも、もう天使像は無い。粉々に砕け散った。
――パリを離れるのもいいかもしれない。此処に留まっていてどうする。もう彼女に会うことは二度とない。ならば。

分かっていても心は逆らう、魂は憧れ彷徨う。会いたい、ただ会いたい。もう一度会えるなら、命も惜しみはしない。風に靡く髪、赤い唇から溢れる声、冷たく青く熱く燃える瞳を。どうして・・・どうして失ってしまったんだ。

「・・離れよう」
声に出していた。言葉にすることで、己に言い聞かせた。そこ此処に共に過ごした記憶ののあるパリにいては駄目だ。ここでは、あまりにも彼女が近い。せめて距離だけでも離れなければ。

 

その後、フェルゼンの元に神父から手紙が届いた。子どもの体調が良くなり次第、パリを出る。アンドレと共にと書かれていた。
「そうか・・君たちは離れてしまうのか」
フェルゼンは椅子に身体を投げ出し、顔を覆った。

 

「隊長、アラン班長入ります」
「私はヴェルサイユへ謁見に行く。午後からの巡回はお前とダグー大佐に頼む」
「今更、宮廷へですか」
「今だからこそだ、アラン」
治安の安定の為、各地から集められた軍隊は、逼迫している食糧事情をさらに悪化させる事態を招いた。加えて急集めの軍は指揮系統が乱れ、衝突を繰り返している。
「中央もどれほど事態を判ってるのか、はなはだ疑問ですがね。昨日はA中隊とアルバート連隊が小競り合いを起こしてましたよ。同じ陸軍内でこれだ」
軽口に見せかけたアランに言われるまでも無く、オスカルにも判っていた。日ごとに変わる状況を軍司令部も全て把握できていないのではないか。場当たり的な対処が国民議会を生んだように、闇雲に兵を集めたことは、予想外の結果を招くのでは。それは・・。
「・・・革命」
最初は広場の隅での囁きだったその言葉は、パリに、いやフランス全土に響き渡っている。その反響が届かない唯一の場所、其処に行かなくてはならない。
「留守は頼む、私が帰らなくても」
「笑えない冗談だ、隊長」
案外、冗談でもないぞ。そう言って笑うオスカルをアランが不安げに見送った。煌びやかな馬車が、陽の沈む方向へ進んでいく。その先には夜の暗闇に沈むのを抗う、宮殿があった。

 

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