世界が明日終わるとしてもー24

 

早馬が走る。オペラ座からほど近い街区で、貴族の馬車が襲われている。その報告がオペラを鑑賞していたブイエ将軍にもたらされた。将軍は同行していた将校に鎮圧を命じ、足早に退出していく。命じられた将校は、伝令に詳しい状況を聞くと顔色を変えた。
「その紋章は。まさか・・オスカル?」

「アンドレ!」
少年が走ってきて、教会前に立っていたアンドレの足元に飛びついた。
「フランソワ、もう大丈夫かい」
「ねえ、アンドレ。僕たちと一緒に来るんだね。ノルマンディーに一緒に行くんでしょ」
少し痩せた少年はそれでも目を輝かせて、彼を見上げている。
「そうだよ、一緒に行こう」
「フランソワ、部屋に戻っていなさい。まだ顔色が青い」
神父が、少年の肩に手を置いて促した。折を見て、子どもたちの荷をまとめているところだった。
「いつ、発ちます?」
「来週には。もうこれ以上パリにいるのは危険です。集められた軍隊は三万に及ぶとか。三部会がああなってしまっては、緊張はさらに高まるでしょう。民衆側につくと言ったオルレアン公に期待する向きもあるが」
「公爵は現王の威信を傷つけたいだけです。王の権威が失墜すればあわよくばと考えているのでしょうが、危険すぎる」
アンドレは宮廷で見かけた王弟を思い出していた。笑っていても常に油断ならない眼をしていた男。兄は王の器ではないと言っていたとも聞いた。
「市民もあの通り、武器を求めて走り回っている。内乱ともなれば、弱い者が真っ先に犠牲になります。幸い、フランソワの具合も快方に向かっていますから」
広場に集まった人々は、どうやって武器を手に入れられるのか話し合っている。鍛冶屋は一日中槍を作っていた。あらゆる物を武器として持ち始めた市民にも絶対的に足りないものがあった。銃だ。槍を何千本作ろうとも、正規軍の装備には敵わない。

――もしも、パリのあの施設から市民に武器が流れたら。本格的に市民が武装したら、その時は。
「アンドレ?」
神父に声をかけられて、彼は我に返った。
「すみません、少し」
「本当に、私達と一緒に来ていいのですか」
「ええ、あなた達の生活が落ち着くまで」
「その後は?」
神父は黙って彼の返答を待っている。
「その後は・・国を離れます」
「それは何故」
神父は少なからず驚いたようだった。アンドレがどうしても離れがたく、忘れえない人がいることを知っていたので。
「この国にいる限り、王家を守る彼女といつか対峙するでしょう。それだけは・・できません」
民衆が武器を取り、軍と戦う日は近い。外国人部隊だけでなく、衛兵隊もパリ防衛に出動するだろう。その時、兵士たちの先頭に立つ彼女を見ることになる、敵として。

兵器廠、廃兵院、武器を探す市民の口から、彼も知っている名前も漏れ聞こえてくる。その武器が市民の手に渡れば、軍隊との衝突は避けられず、今この場所に立っているだけで、彼女の敵になることも彼には判っていた。
「アンドレ、しかし」
そう言おうとした神父の言葉は、急にざわめきだした人々の声にかき消された。
「軍隊が来たそうだ」
「どこに?」
今にも鎮圧の軍隊がこの広場に来るのではないかと、人々は怯えてあたりを見渡した。市内の辻々を警戒し、集まる人々を威圧する軍に対する恐れと恨みは日毎に増していた。しかし少なくとも今この辺りに軍はいない。
「店を片付けた後で手伝います。早い方がいい」
「分りました。ああ、アンドレ」
「はい」
「カフェの店主の事は、残念でした」
アンドレは目を落とした。川に落ちたらしい店主の遺体は、親戚が引き取り故郷で埋葬してくれると言う。

生きさせてくれ!そう叫んで遠のいていった後ろ姿。あれが最後だった。彼は生きたかったのだろうか、それとも死に場所を求めていただけか。店の前の雑踏の中に、妻を探し求めていた男。妻の死によって、生き続ける糧を失った。
アンドレは暗いカフェの扉を開けると、いつも店主が立っていたカウンターの中に入った。ここに立って何ヶ月何年も、ただひとりの女性の面影を追い続ける。そのような人生があった。
「ならば、俺は?」
教会の天使が砕けてしまっても、たとえ遠い国に行っても、どこにいようと面影を追うだろう。金色の髪、青い瞳、夏に咲く花の香りにさえ、彼女を見る。決して会うことのない人の残影を。そうやって、何年も生きる。それを生きていると言えるのならば。
彼は顔を上げ、通りの雑踏を見渡した。三部会が開催された当初の高揚感は見る影もない。店主が言っていたように、昂揚と期待はすぐに失望になり、絶望へと変貌する。

三部会が開かれた時、変わるかもしれないという希望があった。だが、結局何も変わらない。身分という壁、“お前は我らではない”という拒絶。お前は我々と違う、弁えて黙っていろ、血の色の違いは決して超えられない、貴族の結婚には国王の許可がいる、だからお前ではだめなのだ、だからだからだから―――。
「くそっ!」
彼はカウンターを拳で力いっぱい叩いた。
もし、誰かが広場で叫んだように、全ての人間が生まれながらに平等だったら。彼女と俺の間に見えない強固な壁が無ければ、違っていただろうか。裏切ることも傷つけあうことも無く、ふたり共にいられただろうか。

彼女と同じ地平に立つ。身分も膚の色も血の色も、何一つ障壁にはならない。見果てぬ夢だ。夢見ることさえ・・・空しくなる夢。

彼は首を振って、がらんどうになった店を後にした。もう此処へは戻らない、戻ってはいけない。この先一生、漂泊することになっても。彼女と同じ地平に立てず、敵になるくらいなら。

フェルゼンが広場に着いた時、暴動は最高潮に達していた。なぎ倒された馬車の向こうで、御者が逃げ回っている。群衆は辺りの商店を壊し、略奪を始めていた。兵に空に向かって銃を撃たせ、発砲音と蹄の音で群衆を振り向かせた。気づいた者から我先に逃げ出そうとする。馬車の紋章は確かにジャルジェ家のものだ。将軍ならば護衛がいるはずだが見当たらない、ではやはりオスカルか?何処だ?フェルゼンは馬上で群衆を散らしながら探した。逃げ惑う人々の汚れた身なりの中に、青い色が見えた。

「オスカル、しっかりしろ」
路地の奥にオスカルを連れて行ったフェルゼンは、必死に声をかけた。出血で髪が額に張りつき、顔は蝋のように白い。だが、か細いながらも息はある。
「オスカル、聞こえているか?目を開けるんだ」
耳元で呼び頬に手を当てると、オスカルの目の焦点が戻ってきた。目を見開くと、フェルゼンの腕を払い、跳び起きろうとする。
「オスカル、私だ」
「・・フェルゼ・・ン?」
「良かった、立てるか?とにかく人目につかないところへ」
「連隊長!」
背後から呼ばれてフェルゼンが振り返ると、副官が走り寄ってくる。
「お戻りください、群衆があなたに気づきました」
「何?!」
――フェルゼンだ!フェルゼンがどこかにいるぞ。
――誰だ、どこにいる。
見ると群衆はフェルゼンの名前を叫びながら、指揮官を探し回っている。誰かが不用意に連隊長の名前を呼んだらしい。聞き咎めた者が、周囲に知らせたのだ。
「伍長、君はこの人を安全な場所へ」
副官にオスカルを委ねると、フェルゼンは馬に跨った。
「フェルゼン、いけない」
ふらつきながら止めようとするオスカルに、馬の首を返しながらフェルゼンは叫んだ。
「オスカル、アンドレはサンマルセルの教会にいる!」
「・・・え」
「孤児院を併設していた教会だ。彼らはもうすぐパリを離れる、急ぐんだ」
「どう・・して」
「君達には、私のような後悔をさせたくない。サンマルセルだ、オスカル」
フェルゼンは群衆の中に真っ直ぐ飛び込んでいく。
「私がフェルゼンだ。お前たちの探している男はここにいる」
「フェルゼン!」
ふらつきながら駆け寄ろうとするオスカルを、副官が止めた。
「連隊長なら兵もいますから大丈夫です。貴方はお逃げください。馬車を拾います」
「しかし・・」
フェルゼンが自身を逃がす為に群衆に向かっていったことはわかっている。オスカルは振り返りながら暴動から離れ、副官に促されて馬車に乗った。

同乗は固辞してひとり馬車に揺られながら、オスカルはぐったりと横たわった。身体を保つ力は無く、全身の痛みと共に肺の奥からひりついた咳がせり上がってくる。しかし痛みより、口に広がる咳の血の味より、フェルゼンの言葉が脳裏を占めていた。

“アンドレは教会にいる”

―――見つかった・・生きていた。アンドレ・・・・私の、私・・・の・・。