ミノタウロス-1

香りが私を包んでいる。何故だろう、ここには私一人しかいない。広く空虚なベッドの上には、手足を持て余すように投げ出した男が一人だけ。それなのに、どこからか不思議な香りが漂ってくる。私はその香りに絡めとられて眠っている・・いや、夢か?起きているのか?私は今どこにいるんだ・・・。

「フェルゼン伯爵、どうかなさいまして」
ポリニャック夫人がいぶかしむようにこちらを見ている。柔らかな午後の光が満ちた宮殿の一室。
「アントワネット様は、まだいらっしゃいませんのね。今日は謁見の方々が多いようでしたから」
ほんの少数の、王后陛下の気に入りの人間だけが、出入りを許された部屋の中。私はとりとめない会話に加わるでもなく、ぼんやりと窓の外を見ていた。
この期に及んでもまだ私は逡巡していた。今すぐ席を立ってここを出て行かなければ。何も言わずに去ったとしても、誰に咎められるだろう。彼女に言われるまでもなく、そうすべきなんだ。立って外へ出て、逃げ出す。あの方の元から、二度と戻れないほどの距離まで。出来るのだろうか・・。
私は小さく首を振って、絹張りの椅子から立ち上がろうと腰を浮かせた。その時。

「王后陛下、おなりでございます」
その声に、皆一斉に立ち上がり頭を下げる。重々しく扉が開けられ、その次に、軽やかな靴音が聞こえた。顔をあげると、愛する人の姿が私の視界の全てを占める。乳白色の滑らかな額、ほんの少し朱をさした頬。春の空の色を映した青い瞳を縁取る金のまつげ。高く結い上げられ、白い羽根を飾った金髪・・。私は一瞬で全てを見てとり、その全てを自身のなかに飲み込んだ。
そして、恋人も私を見た。お互い、ただその瞬間のためだけに生きているとでも言うように、ありったけの力を込めて。つかの間の邂逅・・そのあとは王妃と家臣に戻る。そして、王后陛下の後ろにいる彼女に気づいた。

オスカルは全てを見てとっていた。私と恋人との一瞬の繋がり。彼女の視線のなかに、私への非難が現れたが、私はそのまま目をそらしてしまった。
彼女はいつも真っ直ぐに私を見る。その真摯さを感じ取って、同時に恥じ入ってしまう。近衛連隊長として、王妃様の友人として、そして、私にとってもかけがえの無い友として、オスカルがどれだけ私達のことで心を痛めているか分っているだけに。

宮廷は魔窟だ。ここに巣食う者達は、人の顔色をうかがい、言葉の裏を読み、他人のスキャンダルを嗅ぎ付ける為に汲々としている。この中を無傷で泳ぎきるのは容易なことではない。ことに、私のような立場にあるものにとっては。人の疑惑を招かぬよう、噂の種をまかぬように、最大の注意を払う。だが、恋する者にとってその想いを隠しとおすことがどれほど困難か。愛する人の華のような姿を前にして、賞賛を眼に表さずにいられるだろうか。その熱が、他の者に気づかれない保証は無い。・・・私は疲れていた。

「フェルゼン」
肩に置かれた手と声に振り返ると、オスカルがすぐ傍に立っている。
「顔色が悪い、眼も赤いな。大丈夫か」
「ああ、心配ないよ。すこし寝不足なだけだ。最近眠りが浅くてね」
「・・・そうか」
何故か、とは聞かない。聞かずともお互い分っているからだ。何度、同じことを繰り返し話してきたことだろう。

“王妃様のためを思うなら、あの方を守りたいなら・・今すぐ離れるんだ”
“離れることなど決して出来ない。たとえ何百キロ彼方にいたとしても、私はすぐに帰ってきてしまうだろう。魂が呼んでいるのだから。私の全てがあの方に吸い寄せられていく。君に分るはずも無い、分ってもらおうとも思わない”
“・・・・分るよ。よく、わかって・・いる”
その時々に言葉は違っても、堂々巡りの話し合いに全く出口は見つからなかった。

私たちは黙って、陽光にあふれる庭を眺めていた。部屋の中で笑いさざめいている人々の方を見ないように。しかし見ていなくても、時折聞こえてくる鈴のような声に、身体のなかに電流が走るのをとめようがなかった。知らず、視線も声の方へ向かっていく。するとオスカルと眼があった。その瑠璃色の瞳のなかに苦痛を見てとって、私は再び目をそらす。
その時ふと、記憶の底を揺らすものがあった。

「おや、オスカル。君は香水を替えたのか?」
「え?ああ、ちょっと気分を変えたくなってね」
「なんだか、いつもの君のイメージと違うな。不思議な・・香りだ」
すぐ傍らでその香りを感じていると、何かを思い出しそうになった。だが、記憶は探ろうとするほどに遠ざかっていく。

「オスカル、こちらへいらっしゃいな。フェルゼン伯爵も・・」
柔らかな声が響き、私は打たれたように振り返った。目の端に映るオスカルの、歪んだ表情にも気づかずに・・。

 

「恋をしているのは誰だ」
誰かが問いかけていた。恋をしているのは・・ああ、それは無論私だ。
「振り向かない者を、求めつづける阿呆は誰だ」
まったくもって私は道化。昔話の蝙蝠にも劣る阿呆だ。オスカル・フランソワ。大貴族の娘にして軍人。王妃の信任厚い近衛連隊長。その王妃の恋人の親友。これが道化でなくて何だ?私はしたり顔で忠告する。”王妃様をお守りしろ。あの方から離れろ”笑止千番。こんな茶番劇があるだろうか。

親友の仮面の下を一皮向けば、嫉妬が渦巻く自分がいる。フェルゼンがあの方に向ける視線に切り裂かれる。その眼を私に向けさせたい。あの青灰色の瞳に射抜かれたい。その腕に抱きとめられ、口づけされることの甘美を味わいたい。そう願うことが罪か?忠実な臣下と、心からの友人の、二つの仮面を被りつづけることに疲れ果てている私が。そうだ、仮面を被れ。衣装をつけるんだ。やがて朝がやってくる。舞台の幕が上がる。今日も同じ三文喜劇の上演だ。さあ、観客が待っている。

目覚めると、夢の片鱗は即座に消えていった。鬱々とした気分の残りだけを感じながら、重い身体を起こす。
今日はスウェーデンから賓客がある。その歓迎の晩餐会も。彼も出席するはずだった。小さく首を振って夢の残滓を振り落とす。まず仕事だ。彼のことは・・今は心から締め出さなければ。

客は新しいスウェーデン大使で、赴任の準備のためにやってきた。そしてフェルゼンの父とは友人らしい。案の定、彼も晩餐会に出席している。だが、決して王妃様の方を見ようとしない。硬い表情で下を向き、常日頃社交的な面だけはそつのない彼が、隣の客とも余り言葉を交わさない。
何かあったのだろうか?思う気持ちをことさら押し込める。今は仕事に専念する時だ。私は連隊長の顔をしたまま、晩餐会をやり過ごした。

食事が終わり、部屋を移る時、私はフェルゼンに声をかけようとした。その時、新大使が彼に近づくのが見えた。こころやすく話しかける大使に対して、フェルゼンは硬い表情を崩さない。私は、胸にざわつくものを覚えて、二人を注視していた。人々のざわめきに隠されても、声が聞こえない距離ではない。
「それで、君はいつ帰国するつもりだ」
「なるべく、早いうちにと思っていますが」
「そうか、それならいい。君の父上も気をもんでいたよ。放蕩息子がフランスから帰ってこないとね。せっかく花嫁も定めたというのに。私も結婚式には出席させてもらうから、早く国へ帰るんだ」
「ええ、分っています。これ以上・・父に心配をかけるわけに行きませんから」
二人はまだ何か話していたが、私には聞こえなくなった。周囲の全ての音が消えたような気がした。・・・花嫁?結婚?いったい何の話だ。
石になったように動けないでいると、視線を感じて振り返った彼と眼があった。その瞳のなかにはただ・・絶望しか見えなかった。

 

「どういうつもりだ」
オスカルは真っ青な顔をしている。テーブルに置かれた腕だけで体を支えているようだ。何故そんなに小刻みに震えているのか。
「君がそれを聞くのか?君が望んだことじゃないか、そうだろう」
「・・・・私が・・何を、望んだって」
「あの方から離れろ、そう言ったのは君だ」
オスカルは答えない、毒を飲んだような顔をしているが、おそらく私も同じだろう。死よりも辛い毒を飲んだ。
「これ以上の解決策があるか、あったら聞きたいものだ」
故のない非難を彼女に向けている自分が最低なのは分っていた。彼女の今までの忠告は全く正しいものだ。あえて、誰も面と向かってはいえない言葉を示してくれた。
私と王妃様の真の友として彼女がどれだけ心を痛めてきたか。耳に痛い言葉を言ってくれるのは、得がたい友人なのだ。分っていても、心の揺らぎをそのまま彼女にぶつけてしまう。
「オスカル、私のしていることは正しいのだろう」
俯いてしまった彼女の腕を取って揺さぶる。
「これが正しい道だと言ってくれ。私のしようとしている事は間違ってないと。誰にとっても・・一番の方法だと・・」
彼女の答えが欲しかった。まだ踏み出せないでいる自分の背中を、押して欲しかった。そうでなければ、あの方から離れることなど、到底出来ない。
「答えてくれ・・」
オスカルがゆっくり顔をあげる。伏せられていた瞳が徐々に開かれ、私とまともに向き合った。その青い瞳のなかに。

今まで見たことのない炎が燃えていた。青白く燃え上がる炎、何もかもを焼き尽くすような。その蒼い炎を宿した瞳の深遠は深く、覗き込んでいると、その奥から闇も私を見かえしていた。
私は彼女をつかんでいる腕を離し、白い顔にかかる金髪をかきあげた。頬を包んでいる私の手に、彼女のそれが重ねられる。それから・・・私たちは唇を合わせていた。

―――日毎夜毎、香りは強くなってくる。夜の間、眠っているのか起きているのか分らないまま、私を包んで絡め取っていく何かが、確実に強まるのを感じていた。
確かに誰かがいるんだ。この部屋に、寝台の上に、私のすぐそばに。目をあけさえすれば、誰か分るだろう。だが、どうしても目を覚ますことは出来なかった。頬にさらさらとした絹の髪があたる。熱く香ばしい息がすぐ顔の前にある。細く柔らかい指先が私の唇をなぞっている。私は薄く口を開いて、その指を受け入れる。その”誰か”が密かに笑う声が聞こえた。誰だ・・・アントワネット・・様?

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