ミノタウロス-2

―――――阿呆は誰だ?
こんなことになると、全く気づかなかった。フェルゼンが離れていくことなど、思いもつかなかった。頭が痛い、身体に力が入らない。どうやって屋敷の自分の部屋まで帰ったのかも思い出せなかった。今は、夜か?いや、空が白んでいる。
昨夜は・・ああ、そうだ。確かどこかで飲んでいた。真っ黒な気分を抱えたまま、ものも言わずにどことも知れぬ酒場で。このまま何も考えずにいたいと思っていた。

だが、振り切ろうとすればするほど、重ねられた唇が思い出される。彼の息も鼓動も、すぐ間近に感じられた。頬を包んだ彼の手のひらは少し汗ばんでいる。キスは最初ほんの少し触れ合うほどに柔らかく、束の間離れたかとおもうと、もっと熱く包まれた。彼の指先が顎をなぞると同時に、舌がゆっくり差し込まれる。
痛かった。鼓動の早まる心臓とは別に、頭の芯が冷めていた。二つに割れた心と身体が痛かった。熱の伝わる唇も、厚い生地をとおして感じる彼の体温も、全て受けとめているのに、溺れられない。
彼の唇が離れると、私は再び顔を伏せてしまった。力なく彼の身体を押しのけ、顔を見ないようにして黙って部屋を後にした。彼も何も言わなかった。

酔うことは出来ないと分っていたが、何かせずにいられず、私は杯を重ねていった。
「随分お飲みになる」
それが自分にかけられた言葉だと気づいて、ふと顔をあげると、いつの間にか隣のテーブルに男がいた。あまり上等でない身なりをしているが、商人風の。ただ暗がりで顔はよく分らない。
「何かお心にあるようですな」
私は答えずに杯に目を落とした。
「それを取り除いてさしあげましょうか?」
分った風な口を聞く男を睨みつけても、相手は何とも動じていないようだった。彼は懐から小さな壜を取り出すと、私のテーブルにそっと置いた。
「これは、私が墓場まで持っていこうと思っていたものですが・・あなたにお贈りします」
「・・何だ?」
奇妙な言葉と行動の男は胡散臭かったが、その時の私はそれ以上追求する気にならなかった。早く一人にして欲しかった。
「私は香水師でしてね。もうたたんで故郷に帰るところなのですが、私の最後の作品です。差し上げますよ。きっと・・・望みをかなえてくれるでしょう」
「望み・・だと」
その言葉が澱んだ私の意識を引き上げた。私の望み・・それは、フェルゼンが帰国して結婚することか。王妃様をお守りすること、その立場を危うくするものを取り除くこと。それが私の責務だった。その結果がこれか。
私は黙って目の前に置かれた小さな壜を見ていた。なんの変哲も飾りもない、四角く透明なガラスのなかに瑪瑙色の液体。これが何をかなえるって?眼をあげると男はもうそこにいなかった。

私は驚いて立ち上がった。狭い店の中を見渡す。だが既になんの影もなく、ただ光を吸い込む小壜だけが残されていた。
望みをかなえる・・あの男は言った。私の望みは一体何だろう?私の望みは・・欲しているものは・・。壜を見つめていると世界が暗転した。それから後は記憶が無い。気がつくと屋敷の寝台の上だった。

私は重い頭を振って起き上がった。身体が鉛のようだが、バルコンまで行き、カーテンを勢いよく開く。白白とした朝が明けようとしていた。その光で何とか夜の気配を押し戻す。居間の椅子に沈み込んで、朝陽が徐々に部屋に満ちてくるのを眺めていた。ふと、化粧卓に眼が止まる。四角い小壜。あれはまさか・・。いや、違う。あの壜は以前からあそこにあった。いつどこで、手に入れたものかは忘れたが。つい先日も使ったことがある。あの日・・フェルゼンが満身の力を込めて、王妃様を見つめていた日に。

私は壜を手にとり、その硬い蓋を取る。あたりに不思議な香りが立ち込めた。この香りを嗅いでいると、何かを思い出しそうになる。記憶の底を揺るがす香り。私は一滴を指先につけ、項に移す。血がざわついた。あたりが暗くなり、どこかから声が聞こえる・・甲高い・・哄笑が。あの声は・・?

 

「今日、王妃様に帰国することを伝えてきた」
「・・・ああ」
「橋は、焼け落ちたわけだ」
「戻ることは出来ない・・か」
私たちは向かい合って、言葉少なに杯を傾けている。宮廷で見かけて私が声をかけた。この間のことは、お互い何も言わない。触れ合った唇のことも、伝わった身体の熱も、何も無かったかのように。ただ心の底に、澱のようにその記憶が溜まっている。グラスを揺らす彼女の白い指先を見ていると、あの時感じた奇妙な疼きが思い起こされた。

今日もそうだ、何故私は彼女に声をかけてしまったのだろう。折れるほど指を握り締め、血の気の失せた頬をし、王妃であるという自負だけで、かろうじて涙を流すことを止めている愛しい人のことで、胸がふさがれながら呆然と歩いていく。その先に彼女がいたのだった。いつもと同じように真っ直ぐ私を見て立っていた。

その瞳のなかに、あの日感じた炎は無かった・・ように思えた。いつもの、少し苦痛をうかべた静かな蒼い瞳。少し怯えていた心が安堵する。オスカルは大切な友人だ。あれは、あの邂逅は、ほんの一瞬、魔が通り過ぎたようなものだ。こんな風に黙って、酒を間に挟んでいることの出来る関係。これ以上近づくことは無い、それに、もうすぐ何百キロもの距離を離れるのだから。彼女とも・・あの方とも。

私の前には寂寥だけが広がっている。広大な砂漠、生き物の影すらない世界の果て。私が帰っていくのは其処だ。たとえそれが故郷でも、父母も妹も懐かしい人々がいても、あの方がいない世界は、水一滴すら無い乾いた地だ。
いつかこんな気持ちが消え去る日が来るのだろうか。距離を離れ、気が遠くなるほどの時間をおけば、この苦痛はなくなるのか。そうは思えなかった。遠い国にいても、あの方の愛でた同じ花を見れば心が裂かれるだろう。どれだけ年月が経っても、失った関係への愛惜は、石となって私の中に溜まっているだろう。その重さに慣れることはあっても、石が消えてしまうことは無いだろう。

現に今でもまだ迷いが残っている。あの方がかろうじて止めた涙が流れていたら?行かないでくれと搾り出すように言われたら?私の脆い決意など、跡形も無く消えていきそうだ。
眼を上げてオスカルの顔をうかがう。彼女には、私の心の中の逡巡など、見抜かれているのかも知れない。あの真っ直ぐな蒼い瞳。その前には、どんな虚勢も欺瞞も役に立たない。だから私は目をそらすことが多かった。眼があえば、自分の中の砂漠を気取られる。弱い心を見透かされる。それに・・もしかしたらあの炎が、また燃え上がっているのかもしれない。でもあれは、本当に彼女の中の激情なのか?自分の苦痛を、やるせなさを彼女の中に移しただけではないのか?やり場の無い想いをオスカルにぶつけているだけなのかも・・。

ゆらり・・と、周囲が揺れた。知らずに重ねた杯が、頭の芯に霧をかける。出口の無い迷路の中に自分が落ち込んでいくのが分った。暗い・・恐ろしい。誰か・・其処にいるのか・・。
心配そうな顔がのぞきこんでいる。遠くで私を呼ぶ声がする。だが私はそのまま深い穴に入っていった。

 

風が強くなった。散り遅れた花を揺らしている。色を失った薔薇の花弁が、それでもしがみついているのを見ていた。
「あの人が行ってしまいます・・・」
その高貴な人は涙を流してはいない。
「フランスを出て、生まれた国へ帰ると」
その人の白い指が、揺れた薔薇の花びらを振り落としていく。そんな風に無防備に刺に触れては、いずれ血が滲むに違いない。その血はどんなに赤くても、高貴な王家の血には違いなかった。たぐい稀な青い血。
「・・王后陛下」
私は彼女の手を茨からひき離した。その手は細く、白く、しなやかで、女そのものの存在を示している。
「私には・・引き止めることができない。」
「それが一番良い方法だと、誰にとっても。そう言っていました」
「オスカル、でも私には耐えられない。このがんじがらめの宮廷で、かろうじて息が出来るのは、あの人がいたからです。あの人がどこかすぐ近くにいる。それだけが私の力でした。たとえ、目をあわすことが出来なくても、その姿を追うことが許されなくても、彼がいれば・・それだけで」
ぱたぱたと、茨の上に露が落ちる。
「行かないで欲しいと、そう言いたかったのに。でも言ってしまえば、あの人を今まで以上に苦しめることになるでしょう。そんな権利は私には・・・無いのだから」
辛い露は後から後から溢れ出て、葉の緑を染めた。

権利?もしこの世の誰かがその資格を持っているとしたら、それは貴方以外にないではないか。彼が愛しているのは、何者にも換えがたいほど欲しているのは、貴方だけなのだから。貴方以外に、誰が彼を引き止められるというのだろう。
私にはもとより何の権利も無い。彼に国を離れるように仕向けたのは私だ。この国での一番近い友人。ただそれだけの存在だ。私の言葉の重みなど、この高貴な人の涙の前にはなんの価値も無い。この方が・・彼に、一言伝えれば。そうすれば・・。

風がざわついた。湿って重みを増した風が、葉ずれの音を立てる。
「権利なら・・十分にあるはずです。彼が愛しているのは、想っているのは・・」
貴方だけなのだから・・。風にまぎれて独り言を呟く。低い声、木々が揺れる音にかき消されたはずだ。
高貴な人はまた薔薇を弄んでいた。その指先に小さな掻き傷ができ、僅かに血が滲む。だが、私は気づかなかった。心は別のところを彷徨っていて、その人の伏せられた瞳の中に宿った強い光を、知ることは無かった。

 

「やあ、オスカル。捕らえられた男のもとへようこそ」
案内されて入ってきたオスカルに、私は長椅子に寝そべったまま、ブランデーの杯を掲げたが、その勢いで中身が揺れてこぼれた。指を伝っていく琥珀の液体を、ぼんやり眺める。
彼女は何も答えず、私の手から静かにグラスを取り上げると、テーブルに置いた。
「・・・何も聞かないのか」
「聞いて欲しければ・・」
オスカルは私のほうを見ず、グラスの中の揺れる液体に眼を落としている。私はそのグラスをもう一度手の中に取り返すと、中身を全部咽に流した。
「王妃様にお会いした・・昨夜」
「・・・」
「もう会わないはずだったのに・・それで、全てがご破算というわけだ。たった一言・・」
私は杯の中身を一気に流し込んだ。それでも喉が焼けただけで、身体の熱は一向に燃え上がらない。
「たった・・ひとこと。行かないでくれと、言われただけで、それだけで・・全部終りだ。抱きしめて、キスで涙を拭って、そして・・また暗闇の中に戻っていく」

いつの間にか雨が降り出したのだろうか、部屋にひんやりとした湿気が立ち込めていた。耳に入るのは、自分の乱れた息遣いと、ささやかな雨の音だけ。オスカルは何も言わない。私の言葉も聞いているのかいないのか。言葉は中を彷徨って、雨の音にかき消されていく。
ふと、手の中が空しくなった。オスカルが私の前に立って、グラスを取り上げ見下ろしている。
「もう止せ、いくら飲んでも酔えないなら。こんな風に自分を痛めつけても、なんの解決にもならない」
「私を愚かだと思うだろう」
「ああ、大馬鹿者だな。決めたんじゃなかったのか。この国を出ると、あの方から離れると、ようやく・・・」
「君にはわからん」
「判ろうとも思わない!」
激しい音を立てて、オスカルが杯をテーブルに叩きつけた。液体があたりに飛び散り、バランスを失ったグラスが、床の絨毯の上に転がった。

「お前だけが苦しんでいると思っているのか!あの方がなんと言おうと、そのまま離れればよかったんだ。その足でこの国から逃げ出せば・・これ以上、出口の無い迷路に入り込んでどうする」
彼女は私の胸元を鷲掴みにし、意識の沈み込む私を揺さぶった。その目のなかにはまた蒼い炎が燃え上がっている。

胸倉を掴んでいる彼女の手首を握って、押し戻す。掴んだ手は思ったより細く頼りない。酒のせいで力の加減がきかなかったのか、彼女が痛みに顔を歪ませた。
「つ・・離せ」
私は答えず、腕に力を込めて、彼女を床に引き倒した。はずみでグラスが転がっていき、テーブルの角にあたって乾いた音を立てる。その音を耳にしながら、彼女の唇を捕らえて強く吸った。重ねられた身体の重みで逃げることが出来ず、抵抗の声も吸い取られてくぐもってしまうのに、それでも彼女は何とか逃れようと、必死に首を振り、腕で私の身体を押し戻そうとする。
首筋に顔を埋め、細い鎖骨に唇を這わせる。そこは早鐘のように脈が打っていて、匂いたつ香りに陶然とした。厚いジレとブラウスの裾から手を差し入れると、滑らかな肌が吸いつく。そのまま手は皮膚の上を滑って、柔らかい膨らみを掴みあげる。
「止めろっ・・こんな」
指に力を入れると、鈍い悲鳴をあげて彼女の身体が跳ね上がった。

 

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