ミノタウロス-3

私が最初感じたのは恐れだった。尋常でないものへの恐怖。見知らぬ怪物に変貌した男の力への。
手首を掴んでいる手を振り解こうとしても、びくともしない。抱きすくめられると骨が折れそうだ。唇がふさがれて息も出来ない。圧倒的な力、それに組み伏せられていることの恐れと・・怒りが湧き上がってきた。 フェルゼンは行き場のない感情を私にぶつけているだけだ。出口の見えない迷宮のなかで、ただ私が目の前にいたから、私が・・女だったから。

硬く口を閉じても、無理やり舌が差し込まれる。撥ね退けようとしても、重ねられた身体は信じがたいほど重い。裂かれたブラウスの下に露わになる肌が、夜気と恐怖に泡立っている。何故こんな風に翻弄されなければならないのか、彼はあの方にならきっとこんな抱き方はしない。羽根が触れるように扱うのだろう、触れれば砕けてしまいそうなガラス細工。あの人になら・・きっと。

 

もう、私には何も聞こえなかった。彼女の抗う声も、絹が引き裂かれる音も。ただ自分の腕の下にあるのが、確かに女だという事実に愕然としていた。

いつもの視線すら拒む硬い軍服、普段の姿はそれより柔らかな色だが、肩の張った男の服であることには違いない。男にはありえない細い顎の線、白い指先。それが女性であることを痛々しいまでに示していても、私にとって彼女はどこまでも友人だった。
しかし今、手の中にいるのは、血の気を失って唇を噛みしめている顔、驚くほど湿った滑らかな肌、露わにされた細い肩から続く胸、その全ては女以外の何者でもない。

その肌に顔を埋めると、人を酔わせる香りが立ち上る。私はその香りに覚えがあった。だが記憶を辿る前に、その香りに絡めとられ、腕のなかにいる身体に魅了されていく。彼女が抗い、恐怖で青ざめる肌とは対照的に、香りはますます強くなってくる。私がその肌に口づける度に熱を帯びたその場所から、幻影が揺らめき立つようだ。その幻は次第に白い霧から形を明らかにしてゆき、夢の底の記憶と重なった。私を捕らえ篭絡して密かに笑っていた夢の女。その顔が今目の前にはっきり見えた。白い顔、血よりも紅い唇、乱れて蠢く金の髪、あの女は・・。

その時、唐突にオスカルの身体から力が抜けた。硬くなっていた腕は床に投げ出され、髪に表情を隠した顔は、横を向いたままぴくりとも動かない。
「・・・のか?」
彼女が小さく呟いた声は聞き取れなかった。
「・・オスカル」
「あの方も・・こんな風に抱いたのか」

 

「ああ、そうだ・・・・折れるほど抱きしめて、貪り尽くして。それでも、肌に痕だけは残せない。どんなに熱くなっていても・・それだけは、出来ない」

フェルゼンは私から身体を離し、傍らの長椅子に倒れかかった。さっきまでの取り付かれたような激情は、徐々に冷えて固まっていく。その青灰の瞳は、部屋の暗がりを通り越して、ここではないどこかを見ていた。
「どんなに愛しあっていて、狂うほど求めていても、決してかなうことはない。夜の闇にまぎれて、束の間抱き合うだけで・・陽の光の下では眼も合わせられない。本当にもう・・疲れたんだ」

私はゆっくり立ち上がり、眼前にいる魂の抜けたような男を見下ろした。蝋燭の光だけが揺らぐ部屋で、その力ない身体は波打ち際に打ち捨てられた人形のように見える。蜘蛛の糸に捕らえられて動けない、哀れな男。彼を縛っている愛情という糸は死臭がしているというのに。糸で切り裂かれた傷口は決して癒えることなく、皮膚はそこから腐っていく。
いま、この腐乱した愛しい男を前にして、私の中を満たしているこの感情は何だろう。愛情?それとも憐憫か。いや、もっと別の・・。

私は彼の前に膝をつき、顔にかかった薄い色の金髪をかきあげた。彷徨っていた視点が私の上でとまる。
「この・・香りだ」
「何が」
「夜毎に、私のもとを訪れる女の香りだ。私は、その女に手を伸ばして、抱き寄せて、キスをする。彼女が密かに笑う。可笑しくてたまらないような、私を哀れむような笑い声。しっとりした肌に手を這わせた、その体温すら覚えている。夢のはずなのに・・」
「それは・・私だよ」

 

「私も女の笑い声を聞いた。それが夢だったかどうかはわからない。笑っているのに、泣いているような。憎みながら愛しているような・・誰の声だったのかわかった。あれは私だったんだ。お前をすぐ上から見下ろして」
「髪が私の頬にあたって、指が唇をなぞっていた」
「その指が、お前の舌に吸い付かれて紅くなる。ちょうど・・こんな風に」
言われてから始めて、自分がオスカルの指を吸い寄せていることに気づいた。白く細い指先。頼りないほどに華奢な手首。その皮膚をとおして青い血管が透けて見える。私の視線はゆっくり上がっていき、蝋燭の明かりに陰影を刻んでいる細い肩を見つめた。そして・・その顔を。

それは長年信頼を培った友人の顔ではなかった。此処にいるのは全く別の女。私を見下ろしているその瞳は、妖しく揺らいで私を縛りつける。
「フェルゼン・・」
彼女の両の手が私の頬を包み、柔らかな唇が重ねられる。キスは顎に、耳に、首筋に降りていく。彼女を引き寄せると、心地よい重さが身体にかかる。だが彼女の指は絶え間なく蠢き、シャツの襟元から私の皮膚を探っている。
「お前が欲しい・・私がお前を抱きたいんだ。ずっと・・それが望みだった」
「こんな惨めな男を?」
「それでも・・・・」

 

どんな男でもいい、私が愛しているのだから。それ以外になんの理由がいるだろう。ただ彼が欲しいと、それだけが私の望み。彼がこうして私の腕のなかにいることが。

彼の胸に耳をつけると、波の音のような鼓動が聞こえてくる。聞こえるのはただその音だけ。他には何も見えない・・聞こえない。あるのは夜の闇と香りだけだった。

「オスカル」
私は顔をあげる。彼の瞳に私が映っている。私は彼に顔を近づけ、ついばむように、くちづけした。彼の柔らかな手が伸びてきて、私のブラウスをゆっくり引き降ろした。白い半身を彼の前に晒したまま、私はまだ見下ろしている。
雨はまだやんでいないらしい。雨音はしなかったが、部屋を重苦しい湿気が支配していた。晒された肌が、冷気に泡立つ。彼の手が肩から腕へと降りていく。そこだけが熱を帯びて、凍えた皮膚が溶かされる。そして首筋へ、胸元へ、膨らみへと降りてゆき・・。
彼の熱が伝わってきて、次第に息が荒くなる。頭のなかに霧がかかって、何も考えられなくなってくる。ただ・・背中の痛みが、徐々に強くなっていった。

「痛い・・・」
いつの間にかうつ伏せに伏せられた私の身体を、余すところ無く彼の唇と手が塗りつぶしていく。彼が唇を這わせるたび、その白みがかった金髪が私に軌跡を刻む。そこから私の皮膚は裂けて血が流れ出す。だから痛いんだ。彼の手が触れたところが熱を帯びて発火する。その熱が痛い。

抱いているのに、抱かれているのに、この痛みが私を溺れさせない。

闇と香りのなかで悦楽に翻弄されていても、細く高い声が上がり、身体が波が寄せ返すようなリズムで動いても、ただその痛みだけが私をこの地上に縛りつける。
「フェルゼン・・フェルゼン」
何もかも忘れるために、私はただ彼の名前だけを呼んだ。繰り返し、繰り返し、囁かれる名前は、次第に意味を失って、ただの呪文になっていく。

 

泣いている?
私は目を開けて、身体の下にいる女の表情を覗った。だが、眉を寄せたその顔の、どこにも涙の痕は無い。ただ声だけが、何度も私の名を呼ぶその声が、胸の深いところを突き刺した。その声は罪を告発するかのような響きがあった。

私はその声に耳を塞いで、ただ唇と舌で彼女の肌を埋めていく。そうして、硬くぎこちない身体の動きが徐々に融けていった。日頃、剣を振るい、銃を捧げ持ち、白い馬を疾走させるその身体は、驚くほど完成された曲線を持っていた。そのしなやかな腰の線が揺らめく。
「は・・・ぁ」
名前を呼ぶ声が終り、溜め息のような細い声が取って代った。青ざめていた肌が、次第に紅くなっていく。弱々しい蝋燭の明かりの下で、絨毯の絹紅色を映して、その肌は火の色になっている。彼女が蠢くたびに、その紅は様々に深みを変えて、ますます燃え上がるようだ。私はその火に焼かれている・・。

手を這わせると肌が吸い付いて離れない、背骨から項に舌を伝わせると汗の味が辛い。抑えようとしても洩れてくる甘い声。そして、彼女の腋から耳元からくびれた腰から匂いたつ香りは、一切の思考を奪っていく。
私は彼女を仰向かせて、形のいい胸を両手で掴みあげると顔を埋めた。緊張の走る身体に気づかぬ振りをして、その先端を口に含み、舌で転がし、吸い上げる。指でもう片方の突起を挟んだまま手を揺り動かす。
「つ・・・んっ・・」
声に僅かな苦痛が含まれていた。そしてそれ以上の愉悦が。その声に昂ぶった感情のままに私はキュロットの奥深くに手を伸ばし、その絹地の下の湿った場所に指を差し込んだ。

悲鳴のような声を上げて、無意識に逃れようとする彼女の身体を逃がさず、更に指を蠢かし、その核をそっと挟む。首を振る彼女の横顔に、その声に、私はただ攻め立てることしか頭になかった。もっと悦楽に沈めたかった。
指を襞に侵入させ、一番敏感な部分を擦りあげる。赤い先端を嬲ることは止めないまま。彼女の腕が私の身体を押し返そうとしたが、まったく力が入っていない。乱れて顔を隠した金髪をかきあげて、その耳元に息を吹き込んだ。苦痛と快楽にまみれた高い声が上がる。

私は唐突に一切の動きをやめ、心もち彼女から身体を離した。翻弄される波間にいきなり放り出されたオスカルは、訳がわからないという風に薄目を開けて私を見返す。その瞳は蝋燭の灯りを照り返して赤く光っている。
私はキュロットに手をかけると、その下の絹地とともに、引きちぎるような勢いで引き降ろした。
「なっ・・・や・・」
思わず上がった抵抗の声も意に介さず、ガーターも薄絹の靴下も、つま先にかかっていただけの靴も、何もかもが彼女の身体から剥がされる。

黒赤地に濃緑の蔦模様の絨毯の上で、彼女の白い身体が晒されていた。
私はその完全な線に呆然と見入っていた。あの貴婦人達の、極限まで締め上げられたコルセットとは無縁のこの身体が、かくも完璧な造詣であることは皮肉だろうか。それは優美な馬の動きのようでもあり、鍛え上げられた剣のようでもある。
抜き身の剣・・今まさに灼熱に溶かされ、槌で形を変えられつつある、焼けた鉄。それが彼女だ。赤く染まった肌は溶鉱炉の中の照柿の色。身体に溜まった汗は鉄を冷ます水。鋳出されて今、その形をあらわにした剣。私はその剣に貫かれて身動きできない。

「・・・見るな」
無遠慮な視線に耐え切れず、オスカルが抗議の声をあげる。だが私は眼を閉じるつもりはなかった。彼女の両手首を掴むと、頭の上で拘束した。鎖骨から胸への筋肉が伸びて、胸元によりいっそう陰影を刻む。片手で彼女の腿を掴み、自分の肩に掲げると、ぬらぬらとした金色の茂みが露わになった。私は堪えきれず、そこに顔を埋めると、核を捕らえて吸った。そのまま指で襞を開き、舌はもっと奥へと侵入していく。
彼女の身体が打たれたように跳ね上がる。悲鳴は再び強くなった雨の音にかき消されて、闇を裂くことはできない。

やがて粘膜のような白い液体が流れ出す。その後を追って、内腿にも唇を這わせた。声はもう悲鳴でなく、雨音にまぎれるかすかな音楽になっていく。膝へ脹脛へ踝へ、白濁した液の痕をつけながら足の指にまで到達した。指の間にキスを続ける私を、オスカルが陶然とした眼で見上げている。その表情を見返しながら、足首を掴むと、腕に力を入れて押し広げた。
彼女の眼が恐れと驚きで見開かれ、私たちはまるで敵同士のように睨みあった。決して腕を緩めない私。人を射抜く目線だけで、それに抵抗する彼女。
だがすぐに、その目元が緩み、笑っているような顔になった。彼女が腕を伸ばして、指先で唇に触れる。私はその感触を覚えていた、夢の女・・その細く冷たい指先。私は唇を開いて指を受け入れる。彼女の指が舌を押し、歯列をなぞる。湿った部屋の空気は、彼女の香りで充満していた。不思議な香り。花でもなく動物のそれでもない、何から搾り出されたのかその源泉が全く分らない香水。

私のいるこの部屋は、現実のものなのか・・それともあの夢の続きなのか、既に分らなくなっていた。だが、そんなことはもうどうでもいい。確かなのは腕の中にいる女の体温だけ。私は再び身体を重ねて、花弁を指で開き、その芯を吸い込む。

 

初めて人の前に開かれたそこに、熱く湿ったものが忍び込んでくる。快楽の波はおしてはかえし、次第に強くなっていった。唇が、手が、そして彼の身体全部が、私を嬲り、翻弄している。背中の痛みすら、既に快楽に変わっていた。
指が液体のすべりをかりて、いっそう深く差し込まれる。もとのとおりに硬く閉じようとする襞を、湿った舌が広げていく。
「ふ・・・あっ・・ぁっ」
声にならない声と同時に、瘧にかかったように全身が小刻みに震えた。頭の中が真っ白になって弾け飛び、彼と私以外の存在が消えてしまった。感じているのは絶え間なく寄せてくる快感だけだ。

「オスカル・・」
呼ばれて私は目を開けた。そこには愛しい男の胸があって、私は金の産毛に覆われたその胸の赤い箇所に舌を這わせる。
「これで・・・終りだ。もう何もかもが」
彼の言葉に笑って私は首を振る。
「違うな・・これは、始まりだ。これから・・の」
それ以上言葉は続けられなかった。身体の中心を貫かれて、鋭い痛みが全身に走った。

裂ける・・身体が、日常が、過去が・・・。

 

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