ミノタウロスー4

今夜もまた、雲は垂れこめている。窓の外は一面の闇だった。部屋の中も僅かな灯りしかない。
私は薄暗がりの中で彼女の後ろ姿を見つめている。ぼんやりとした蝋燭の光は、彼女の肩の線をかろうじて浮き上がらせているだけだったが、その白い身体は闇に溶け込まず、コルセットを締めブラウスに手を伸ばす動作は全て見てとれた。
「そういえば、君と朝まで過ごしたことは無かったな」

あれから--あの始まりの日から、何度身体を合わせただろう。あの日、彼女が言ったとおり、全ては始まりでしかなかった。日常の中で、ほんの束の間お互いを貪る。何度あった?
それはいつも厚い扉の奥で、声すらどこにも洩れないように、息遣いだけが熱を帯びる関係。人の眼や、微かな足音にすら脅かされる情事。それでも止められなかった。何故なのだろう。

私の言葉に彼女が振り向いて、小さく笑って答える。
「心にも無いことを」
「いや、本当だよ。できればこのまま・・」
私は彼女に近づいて、まだブラウスに袖をとおしただけの肩に口づける。
「そして朝、私の部屋から出て行くお前を見咎められて、それが王妃様の耳に入って良いとでも」
「・・・・それもいいかもな」
「馬鹿なこと。今ならいい、この時間ならまだ、私の部屋で語り明かしてちょっと時間を過ごしてしまった、そう言える。今までだってあったんだ。だが、朝までとなると話は別だ」
「何故いけない?君と私は友人だ、誰もがそう信じている。お互い以外は」
「・・・罪を犯したものは用心深くなる。お前はよく知っているだろう」
「ああ、よく分っているさ」
振り返った彼女の眼の中に、また青白い炎が燃えている。私はそれをもっと燃え立たせたかった。彼女を根底から揺さぶりたかった。いつも・・。

決して彼女は私の前に心から開かない。部屋にこもる湿気が沸騰するほど、身体を熱くしても、抑えようとする声が思わず高くなってしまったとしても、決して身体の底から溺れることはなかった。終わった後のけだるさの余韻を残したまま、涼しげな顔でコルセットの紐を締めていく。そして軍人の、臣下の顔に戻っていく。
「君はどうして、そんな風にすぐ顔を変えられるんだ」
「お前はいつも私に答えばかり求めるんだな。ただ黙って、抱いていればいいものを」
「そうもいかない、私は君のことを知りたい。君がどんな風に感じて、その凍った表情の下で何を考えているか、君が何を」
突然、鋭い痛みを頬に感じて、私の身体が揺れた。目の前に腕を振り上げたまま、怒りに青ざめた彼女がいた。
「二度と・・・そんなことを口にするな。私のことを知りたいだなどと・・二度と言うな!」
声が震えているのは怒りのせいか・・それとも、泣いているのか。

 

クラブサンの音色が風に運ばれている。私はその音の流れる先を見ていた。軽やかな旋律が、小さく引っかかり、溜め息とともに音が終わる。
「今日も駄目だわ、いつもここで失敗するの。この指が難しくて」
私は立ち上がってその人の傍らに行き、手を添えて鍵盤を叩く。
「こうして、ここで親指をくぐらせれば」
「ああ、ありがとうオスカル」
だが、そのままその人は手を止めてしまう。鍵盤に眼を落としたまま、指で小さくキーを弾く。
「オスカル・・貴方・・」
私は黙って言葉の先を促した。その人は顔をあげるとしばし私を見つめている。
「最近雰囲気が変わりましたね。とても美しくなって、そして少し怖いような」
「私がですか」
「ええ、何だか。どう言ったら良いのかしら、研ぎ澄まされた、抜き身の剣のよう。触れたら血が流れ出しそう」
私は空色の瞳を見つめ返した。それは春の陽光に溢れた大気の色。翳りの無く、曇りの無い真っ直ぐな瞳。
「何か・・ありましたか」

風が部屋の中まで花の香りを運んでくる。これは、ああ薔薇の香りだ。あの日、この人が弄んでいた薔薇。いや、あれはもう散っているはずだ。
「何もありません、王后陛下。私の身には何の変わりも・・」
「・・・そう」
その人はしばらく逡巡してから、また鍵盤を爪弾き始めた。今度は澱みなく、軽やかに音楽は流れる。私はその横顔を見つめていた。花が人間の形をとったとしたら、このような女性になるのだろう。艶やかで柔らかく、香りの良い・・男が愛するに十分すぎるほどの美しい花。

私は窓の外に目を逸らした。外には一面の薔薇、風が運ぶその香りが人を狂わせる。いや違う、この香りは・・これは私だ。あの四角い琥珀の壜の中身。あれからいつも身に付けている。これが全ての元凶か、それとも、原因は歯車の狂った私の心か。
音樂は今最高潮に達していた。クレッシェンドで高まっていく旋律に、頭の中が真っ白になってはじけ飛び、何処かへ飛んでいってしまいそうだ。何処へ?私は何処へ行くのだろう。

 

宮殿の光に溢れた廊下を、彼女がこちらへ歩いてくる。その姿は陽光を吸い込み、自ら発光しているような輝きを放っている。まだ彼女は私に気づかない。私はただ黙って見つめている。するとふと、眼が合った。こんな時オスカルは奇妙な表情をする。
まるで・・そう、何処かで会ったことがあるのだが、名前が思い出せない、といったような赤の他人を見る表情。それは一瞬のことなのだが。

「やあ、フェルゼン」
声は澄んでいて澱みなく、年来の友人に挨拶する言葉に一分の隙もない。私も挨拶を返し、まったく何気ない立ち話をしている。傍から見れば、気の置けない友人同士に見えるのだろう。だが、私はその友を失ってしまった。代わりに手に入れたものは、愛人でもましてや恋人でもない。
あの表情の理由はわかっている。彼女にとって肌を合わせていないときの私は、すでに希薄な存在なのだ。今目の前にいて、微笑を浮かべて話している相手は、舞台の上での役者。友人という役柄の。

だがそれはお互い様だ。私とて近づく彼女を見つめながら考えていたのは、あの完璧な肢体のことだった。闇に溶け込まない白い肌が紅く息づくのを、背中から腰にかけての無駄のない筋肉が打ち震えるのを、私はつぶさに思い出していた。その身体をもっと沈めたい、狂うほどに昇り詰めさせたい。何度抱いても最後まで溺れようとしない彼女を。

彼女は決して溺れない。どんなに熱くしても、その奥で何かが私を拒んでいた。奥底を突き動かすたび、どうしても立ちはだかるその壁にやるせなくなった。抱くだけでは壁は崩せない、それはわかっていても、もうどうにもならなかった。
彼女に近づこうとする私の心の弱さを真っ向から拒否されたのだから。あの時打たれた頬の痛みが蘇る。それは彼女が受けた痛みの何分の一でしかないのだろうが。

ふと視線に気づいて顔を上げた。私をじっと見つめている一人の男。その眼には憎悪と悲痛が現れている。あれは確か、オスカルの副官だった。先ほどまで一緒に彼女と話しながら歩いてきて、もうとうに立ち去ったと思っていたのに。
―――こうして人に知られていくのか
男の眼の中にあるものを私は知っている。それはオスカルが私と恋人を見ていたときにも、私が恋人とその夫を見ているときにも、現れているものだろう。愛情と憎しみだ。愛はその対象へ、憎しみはその愛を捨てきれない自分自身への。

黙り込んだ私に、オスカルがいぶかしんで後ろを振り返った。彼女も気づいた。知られていることに、知られていくことに。

 

「貴方はそれでいいのですか」
午後の司令官室で唐突にジェローデルが私に話しかけた。とっさには何も答えられない。二人の他は誰もいない室内は静かで、窓の外で微風が微かに葉先を揺らすだけだった。
「・・何の話だ」
「判っておられるはずです」

彼の声は平静だった。だがその奥に秘められた感情のどれほど深いものか、容易に想像がつく。彼はどこまで知っているのだろう。私を、そしてフェルゼンを見ていて気づいたのか。私たちが陥っている迷宮の深さまで知っているとしたら。それなら・・。
「ジェローデル、どんな関係でも始まりがあれば終りがある。永久に変わらなく続くものはない。いつか・・終りが来る。もう遠いことではないかもしれない、それまでは・・」
「黙って見ていろと?」
「できれば」
私を見つめている鳶色の瞳を見返す。

すると、何故だか突然、泣きたくなった。あの時から涙など一度も流したことが無かったのに、今ここで声をあげて泣きたかった。生まれたばかりの子供のように、言葉を忘れて泣きたかった。だが私は顔を伏せ、口を手で覆い、かろうじて溢れ出ようとするものを止めた。
「わかりました。誰にも言いません、決して」
すまない・・そう答えようとしても、言葉にならなかった。せき止められた感情が、石となって喉の奥に溜まる。石はどんどん重くなって私自身を押しつぶしてしまいそうだ。

―――あなたが人であれ影であれ、私を助けてください
そう言ったダンテにはヴェルギリウスが、テセウスにはアリアドネーがいた。だが私の前には誰もいない。私自身の力で、この迷宮から出るしかないのだ。

 

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