ミノタウロスー5

足元に散らばった手紙が、夜の風にかさかさとした音を立てる。だが、私はそれに気づかず、長椅子に横たわり天井を仰いだままだった。
―――お前は何をしている?
虚空から私に問いかける者があった。
―――為すべき事があるなら、するべきだ。
「オスカル・・君はまた私を馬鹿者だと言うのだろうな・・」
独り言を呟いても、誰も答えるものはいない。

開いたままのバルコンから吹き込む風が、手紙を宙に舞いあげる。その白い紙は風に嬲られ、部屋の隅の暗がりまで飛ばされた。外には細い猫の目のような月が輝いている。私は目を閉じ、眠りに入っていったが、あの不思議な香りは気配すらなかった。私はただ夢の無い深い闇の中で眠りつづけた。

 

静かだな。
今更ながらにそう気づいた。彼の屋敷を訪れると、いつも静かなのだった。客人もあるだろうに、私が来る時たまたまそうなのか、それとも・・。 少なくとも今日はこの静けさがありがたい。たまさかの客でもいて、屋敷がざわついていたらその場で引き帰したかもしれない。

通された彼の居室もいつもどおりだった。いや、バルコンが開け放たれている。冷たい夜風が吹き込んできて、蝋燭の明かりを今にも消しそうだ。その床には、暗紅色の絨毯。ここから始まった。あの日流した汗と血とともに。

「・・風が強くなりそうだ」
彼は闇に覆われた外に眼を向けていたが、私にゆっくり振り返って言った。言葉どおり、暗い空はすごい勢いで雲が流れていく。細く尖った月が流れる雲に見え隠れしている。
私はテーブルのグラスの横に置かれた手紙に気づいた。風に今にも飛ばされそうだったので、近寄って何気なく手にとり、彼に手渡そうとした。
「・・読んでくれ」
「私が?これはお前に来た手紙だろう」
「君に読んで欲しいんだ」
いぶかしみながらも私は目を落とした。手紙は二通ある。上のひとつから便箋を取り出した。彼の妹からだった。
遠い異国にいる兄を気遣い、故郷の身内や友人の消息を伝え、いつ帰ってくるのか尋ねている。その文面から穏やかな人柄と、何より兄に対する愛情が伝わってくる。私は心臓の奥を錐で刺されたような気がした。彼は家族の元に帰るべきだ。そうするはずだった。それを止めたのは、私。愛に溢れた手紙の中の声が、私の罪を暴き立てている。

私は顔を歪ませたまま、二通目を取り出した。フェルゼンは黙って暗い外を見つめている。それは彼の父親からの手紙で、最後まで読み終えた私は顔を上げ、彼の表情を覗う。だが、その青灰の瞳は、この場には相応しくないほど平静だった。
「これは・・・いったい、どういうことだ」

 

「書いてあるとおりだ」
私は指先が震えているオスカルの手から、手紙を引きとった。
「父は激怒している。先の結婚話を反故にしたこと、いくら言っても故国に帰ってこないことで。特に結婚のほうは、スウェーデン国王の意向も多少は入っていたのでね。元帥としては立場が無いという訳だ。ただそれは表向きで・・」
「それで、この手紙か」
「さすがに察しがいい、要は父親の信頼を裏切ったのだから、それ相応の代償を払えということだ。」
私は椅子に身体を沈めると、グラスを手にとって掲げた。液体越しに見える彼女は奇妙な形に歪み、その表情を読み取ることはできない。風が強くなって蝋燭の明かりが揺れている。

「父にとっても賭けだった。この結婚話を私が大人しくのんで帰国するかどうか。だが私は帰らなかった。そして父はかねてからの懸念が決定的になったことを知ったんだ。私が・・フランス王妃と」
「”親密である”・・ということか」
「そう、だから代償はそれだ。あの新任の大使はやり手でね、この国の宮廷で囁かれていることは、逐一、父や国王の近辺にも届いているだろう。疑惑が現実のものならば、私はなかなか利用価値がある。両刃の剣だが、使いようによってはかなり」
オスカルは私を凝視していた。瞬きもせず、息すらしていないようだった。

 

頭の芯がきりきりと痛んだ。視界が狭まってきて、自分の出す声がどこか遠くから聞こえてくる。

そうだ、私は危惧していた。フェルゼンと王妃様との関係が露わになることによって引き起こされる様々な困難を。それが宮廷雀のさえずりで終わっているうちはいい、だが水面に投げ込まれた石は、どんなに小さくとも波紋を広げずにはおけない。だがそれが、こんな形であらわれるとは、正直予想だにしなかった。

「何故この手紙を私に見せた?」
近衛連隊長である私に。
手紙には読んだら速やかに処分するように仄めかしてあった。全て直接的な表現ではないが、意図ははっきりしている。この内容を私が知ることは、それこそスウェーデン元帥である父の意向に逆らうものではないか。
「オスカル、父は私を買いかぶっている。私にはそんな役周りはできない。もとよりする気も無い。つまらない男の取るに足らない矜持かもしれないが、下衆野郎になるくらいなら死んだ方がましだ。だから・・」
「だから?」
「別の道を取る。フランスに留まることはできないし、今更故国にも帰れないからね。いい機会だ、こんなことでもなければ、いつまでも堂々巡りから抜け出る決心がつかなかっただろう。父に感謝しなければいけないな」

胸の奥が、何かの予感にざわついた。異様なほど平静な彼の声、皮肉に笑みすら浮かべた表情。だがその顔とは裏腹に、のっぴきならないところまで追い詰められているはずだ。
“母国の益に即した行動をとるように”との元帥の手紙は、要求ではなくて命令だった。フランスにいる限り、彼の意思とは関係なく、その命令を実行するよう迫られるだろう。その命から逃げようとする限り、故国にも彼の居場所は無い。だとしたら・・どうする?

私はふと、彼の手の中にある手紙に視線を移した。妹からの手紙、その中でどこか気になる箇所があった。混乱した頭の中から、必死に最初の手紙の内容を思い出す。確か彼の古い友人が・・。
「まさか・・」
細い月が雲に翳って、外は真の闇になった。

 

「アメリカに行く」
「馬鹿な!」
「もう志願したんだ。なるべく早く出発する。父の手が届かないうちに」
「それは・・お前の友人がアメリカで死んだからか?」
私の古い友人。一緒に酒を飲み、狩りをし、女の品定めをした。いくらか放埓な私に対して、友は何事にも真剣だった。曲がるすべを知らないその性癖は、危険なほどに。そういえばその友人の真摯さは、オスカルに似ている。自分に嘘がつけない、流されることが出来ない、そんなところがそっくりだった。
その友が、死んだ。独立戦争に賛同し、身内の反対を振り切って参戦して、そして・・海の果ての遠い国で弾にあたったのだ。妹の手紙でそのことを知ったとき、私の胸に友の言葉が蘇った。
―――為すべき事があるなら、それが価値のあることなら、するべきだ
彼にとっては、アメリカが独立することが、その一助になることが、価値のあることだったのだろう。為に命を落とすことになったとしても。

その彼に比べて、私はいったい何をしている?王妃様を愛しているといいながら、支えになるどころか追い詰めている。オスカルとの関係も、もし人の口に上れば、何より深く傷つくのはあの方なのに。出口の無い迷路に疲れて、均衡が破れるなら、その関係が明らかになってもいいとさえ思った。そんな自分はいったい何者だ?

私は立ち上がって、石のように立ち尽くした彼女の前に進んだ。頬を掌で包むと冷たい。もうずっと長い間、こんな風に彼女に触れたことは無かった気がする。手の中で、徐々に温まっていくオスカルの頬を感じていた。多分彼女に惹かれたのは、かつての友人と同じ、その偽りの無い姿勢のためだ。いつも真っ直ぐに私を見ていた蒼い瞳。こんな風に歪んでしまっても、それでも私は彼女が好きだった。

「・・怖くは無いのか」
呟くように震える声でオスカルが問いかける。
「故国からもフランスからも離れて、海の果ての地で、戦場に立つことが・・お前は怖くないのか」
「怖いさ・・」
そのことを考えると沼に沈んでいくようだ。友は弾があたったときどんな風に感じただろう。掌にべっとりとついた血糊を見ながら、何を考えていたのか。故郷に残してきた身内か、愛した女か。それとも何も感じる暇も無く命を落としたのか。
私が同じ運命を辿らないと誰が言える?だが・・これより他の道はもう無い。

今まで何度も分かれ道はあった。だが私は何一つ選択しなかった。そうして残ったのが死と背中合わせの場所でも、誰のせいでもない。自分の犯したことの罪深さの贖罪になるわけでもないが、逃げ出す場所としては申し分なかった。
私は逃げる――彼女をその罪の前に一人残して。

 

「私も行く」
「・・・オスカル」
「私が行って、おまえが銃撃に晒されるならその前に立って盾になってやる。お前を傷つけようとするものがいたら私が殺してやる。だから・・」
行かせたくなかった。彼が離れていくことが耐えがたかった。でも私には止める権利が無い、あの方と違って。ならば、せめて彼を危険から遠ざけたい。彼の命を守れるなら、何もかも捨てていくことも厭いはしないのに。

だが彼は、私から身体を離すと悲しげに首を振って言った。
「私は何一つ自分で解決しようとはしなかった。ただ深い穴に堕ちてもがいていただけ。これも報いというものだ・・だから、盾になるというのならせめてあの方を守ってくれ」
あの人を・・どんな時も、その姿が見えないときも、常に私達の前にある罪の告発状。それは私たちを縛る鎖であり、断ち切れない絆だった。あの方がいたから私達は結びついていた。たとえ何千キロの距離を離れても、あの方がいる限り決して離れることは出来ない。

背後のバルコンから、一陣の風が吹き込み、私の髪が彼に吸い寄せられるように舞い上がった。彼はそのひとすじを手にとると、口元に運んでキスをした。
「香りが変わったね・・君も、終りにするつもりだったのだろう。もう、あの夢の女は出てこない。闇の中へ消えてしまったんだ」
彼の青灰の瞳に私が映っている。だがその像は歪んでしまってよく見えない。もう眼を開けていられなかった。涙が止めどなく溢れ出てきて、身体が埋まってしまいそうだ。
終りにするつもりだった。知られていく以上、ここで止めなくては戻れなくなってしまう。ジェローデルだけでなく、他の誰かが気づいているのかもしれない。いや・・もしかしたら、あの方も。
「そうだ、もう夢の女はいない。お前を篭絡した私はもう消えたんだ。ここにいるのは・・」
友人でも恋人でもなく、ただ終わっていく過去の存在。断ち切らなければ進むことのできない枷。いつか来るとわかっていた日が今、来ただけ。 それなのに、何故声も出ないほどに涙がやまないのか。失っていくものへの痛惜か、彼を追い詰めた自分への懲罰か。いくら泣いたとしても罪が贖えるわけではないのに。

「帰ってくるんだ。私をこの迷宮に置き去りにしたまま、ひとり逝くことなど許さない。どれだけの時間がかかってもいいから、必ず」
「きっと帰ってくる。それまで・・あの方を」
そう、私はきっとあの人の傍らにいるだろう。彼が帰ってくるまで。その時ようやく私は此処から出ることができる。

フェルゼンは私の頬を指で撫でると、啄ばむような密やかなキスをした。それが永遠の終り。幕の降りた合図。―――風はもうやんでいた。月が雲に隠れ、湿気が雨となって降りてきた。

「伯爵は・・今日出航ですね」
「はい・・」
遅咲に一輪だけの薔薇が揺れている。
「貴方は一緒に行かなくて良かったの」
「王后陛下」
「貴方なら一緒に行けるわ、私と違って。そうできたでしょうに・・何故?」
薔薇は咲ききる前にすでに首を垂れていた。このまま咲かずに散り遅れてしまうのだろうか。
「私は、彼と約束しました。帰ってくるまで貴方の傍にいると」
「帰ってくる?」
「ええ・・必ず」
一輪だけの花は、もう香りを漂わせてはいなかった。人を惑わせる花の香はもう無い。もう今はなんの香りも無かった。人を惑わす、あの不思議な香りも。
「人は・・還るべき場所に帰るのです」
返事は無かった。ただ薔薇を弄ぶ手に、またかすかに血が滲んでいる。私はその手をとり、傷に唇をあてた。もう二度とこの青い血を流させてはいけない。・・彼が帰るまでは。

 

眼を閉じても開けても、周囲は真の闇だった。ただ小さな船窓から見あげれば一面に星が瞬いている。静かに凪いだ夜の海をただひたすらに大陸に向けて船が進む。そこで私を待っているのは何だろう。生か死か・・いずれにせよ、私は帰らなければならない。たとえどれだけの距離を離れ、幾年かかろうとも、もう一度あの地に帰らなければ。
眼を閉じた。やがて眠りがやってくるだろう。今はもう、眠りの中だけは安らかだった。もう私の耳元で、密やかに笑うものはいない―――

 

「ご苦労だった、今日の勤務はこれでいい。遅くなってすまなかったな」
「いえ、隊長こそ今日は早くお帰りください。お疲れのようですから」
「そう見えるか?」
「ええ」
しばしの沈黙が降りる。私は鳶色の目を見返したまま、言うべき言葉を捜していた。何故この瞳に見つめられると、心が揺らぐのかわかった。彼の目はかつての私と同じなのだ。曝け出してしまいたい言葉、千の独白を飲み込んで、ただ見つめていたあの頃の私と。

彼はしばらく逡巡していたが,思いきったように口を開いた。
「先日、出発するフェルゼン伯爵を見送りました」
「お前が、どうして」
「・・貴方の代わりに」
心臓の奥をつかまれたような気がした。喉に何かがせり上がってきて、息が詰まる。
「どんな・・風だった、彼は」
「ほんの一瞬目を合わせただけですが、静かな表情でした。何かにとり憑かれたような焦燥は、もう跡形も無くて」
「・・・そうか」
何千キロの距離を離れることで、彼は迷宮から出て、絡んでいた蜘蛛の糸を断ち切った。再びこの地に帰ってくるまで、彼に焦燥は訪れない。彼が帰ってきたとき、その時こそ、彼もあの方も暗い地の底でなく陽光の庭園を歩むだろう。その道は茨の蔓に覆われていて、歩くと血が滲むかもしれないが、少なくとも花が香り風の吹く場所。ミノタウロスの絶望と闇と腐臭に満ちた迷宮ではなくて。

ふと顔をあげると、花の香りがしたような気がした。陽光を染める薔薇の香が。今はもう跡形もないように思えるが、次の季節に咲くべき蕾が、晩秋の気配の中で眠っているはずだった。やがてまた薫る春がやってくる。願わくば、彼が帰ってくるのがそんな季節であるように。
「ありがとう、ジェローデル。お前には・・感謝している」
「いえ・・」

彼はそれ以上なにもいわず部屋を辞した。沈黙が百万の言葉より雄弁なこともある、それを知っているものは数少ないが。
私は窓のそばの椅子に座り込み、流れる夜の雲を見ていた。もうひとつ、やらねば成らないことがある。小卓の引出しから琥珀の壜を取り出し、そのガラスの冷たさが徐々に手の中で温まっていくのを感じていた。やがて私は立ち上がり、目指す場所に向けてドアを開けた。

 

私は今しがた出てきた部屋の扉を見つめている。その奥にはひとり立ち竦む女性が、焦がれてやまない女がいるはずだった。いつか・・彼女に言えればいいと思う。今は視線だけでしか伝えられないこの気持ちを。
その日はいつ来るだろうか。彼女が縛られた糸から解放される日が。私はそれを待っている。いつか・・きっと。

 

「またお会いしましたね」
セーヌにかかる小さな橋の上で、男は声をかけてきた。私はゆっくり振り返る。意外ではなかった、何故だかここで会う気がしていた。
「もう・・それは要らないのですか」
「ああ」
「望みがかなったから?」
「そうじゃない、真に望んでいることをかなえる為にこれを捨てるんだ」
私は男に向き合ったまま、壜を持った左手を真っ直ぐ欄干の上から伸ばし、指を開く。一瞬のあと、かすかな水音を立てて小壜は川に吸い込まれていった。

「・・結局この香水は私の元に還ってきました。やはり人の手に渡すべきではなかった。私はこれとともに自分のあるべき場所に帰り、そこで眠りましょう」
「ひとつだけ教えてくれないか。あれは・・あの香水は何で出来ていたんだ」
「人の世にある全ての物で・・涙、血、愛情、嫉妬。川は全てを吸い込んで溜めていきます、私はその上澄みを使ったにすぎない」
川面を見下ろしても、もう壜の残した波紋すらなかった。顔をあげると、男は静かに橋を下り、そのまま水音さえ立てず川の中に溶けていくところだった。

長い間、私は男が融けた川面を見つめていた。川は緩やかに流れてゆき、やがて海に達するのだろう。寄せては返す波のように人は帰るべき場所に帰ってくる。私も何処かへ帰ろう。自分のあるべき場所に。
私は歩き出した。川はただ黙って流れている。その底に人の世の全てを飲み込んだまま。

 

END

 

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