海霧ーある詩人の話

ああ、ベルナール?ベルナール・シャトレ。お久しぶりです。ええ、お会いしたことはありますよ。わたしもオルレアン公のサロンに出入りしていましたからね。あの頃のあなたの熱のこもった弁舌は今でも覚えています。こうして尋ねてきてくださって嬉しいですよ。わたしはもう隠遁したも同然で。

ところで、ご用件は?この詩集ですか?これは、そう私が書いた物です。それが何か・・まさか私のサインを貰いに来られたとは思いませんが。革命を批判して、危うく断頭台に昇りそうになった男ですから。まあ、こうして生き延びただけでも運が良かった。生きていてこそ、懐かしい人にも会うことができる。生き延びるだけでも、一仕事ですからね。ええお互い。

話がそれました。この詩集の、この詩ですか。そうこれは・・・。

オスカル・フランソワ・・王妃の信任厚かった元近衛隊長。大貴族の令嬢にして伯爵。そして謀反人。彼女を書いたものですよ。よくお分りになりました。一度だけ会ったことがあります。
ほんの短い時間・・一生のうちでの一瞬の邂逅に過ぎない。しかし忘れがたい人でした。今でも、こうやって眼を閉じると姿が浮かんできます。あの時の、あの方の表情が。確かに美しい人でしたから、でも、それだけではこんなにも強烈な印象は残さない。

彼女の話が聞きたいのですか?何故?本を・・ああ、そうですか。あれから、もう数年も経ったのか。まるで昨日のことのようなのに。ええ、お話しましょう。わたしもいずれ誰かに話したかった。彼女のことを。

会ったのは、先ほどの話しにあったオルレアン公のサロンです。あなたもよく来られていましたね。彼女も一度だけ、本当に唐突に現れた。彼女の噂はよく耳にしました、さてその中のどれほどが真実だったのか、私などにはわかりません。自分の眼で見なければ信用しない性質でして。
しかし、興味があったことは事実です。だから、彼女がサロンに入ってきたら、さっそく話し掛けたんです。噂に聞いていた、その美貌と有能さと、王妃に対する熱い忠誠は、少し話しただけでよく分りました。
残念ながら、ゆっくり語らうことは出来ませんでしたが。そうですね、彼女の周りには大勢群がっていましたからね。興味があるのは私だけではなかったという事です。
もっとゆっくり話したかったのですが。彼女がもう一度サロンにくれば、その時は・・などと私も悠長なものでした。今から考えれば、あの頃すでに時間はなかったというのに。

後からでは何とでも言えるのです。ああすれば良かった、あの曲がり角で行く道を間違えた。この国だってそうでしょう。どこで間違えたんでしょう?私たちは。何故こんなところまで来てしまったんですか。ああ、失礼つい・・。いえ、お気使いなく。あなたはまだ世界の中におられる・・私はもう、自分から出てきてしまったのです。詩も書かず、人にも会わず、ただ時間を消化していくだけ。

そう、私がこんな風に隠遁しているのは、ひとつは彼女が理由です。いえ、何と言うか・・よく彼女のことを考えるんですよ。彼女が生きていたら、今のこの情勢をどう思っただろうか、とね。
あの時、彼女にあんな大見得を切っておきながら、私自身がこのざまです。生きるために・・私は、詩を捨てました。戦うと言っておきながら、命が惜しくて、逃げたんです。すみません、何のことかお分りになりませんね。ちゃんとお話しないと。

彼女とは少ししか話せませんでした。ああ、さっきも言いましたね。何を話したのか、あの頃のことですから、多分、ルソーの思想とか、そういった事だったでしょう。よく覚えているのは、彼らが、民衆が何を求めているかと話をしたときです。彼女は“彼らにとって正義がなされれば良いのか”と聞きました。生活が困窮するほどの高い税金と圧制がなくなれば、彼らは救われるのかと。
それに対して私の答えは、“否”でした。最初、民衆が求めるものは正義かもしれない。しかし、いずれは自分たちの王国が欲しくなるでしょう。そう言ったのです。・・彼女はショックを受けたようでした。

民衆自身の王国・・それは、王室を中心とした制度ではありえない。わたしは近衛連隊長に向かって、王室は倒されるかも知れないと言ったわけです。そんな答えは、彼女は予想だにしていなかったでしょう。今でもその時の彼女の顔が浮かびます。驚愕し、そして、苦痛に満ちていた。
私は自分が彼女にそんな表情をさせたことには、胸が痛んだ。だが、言っていることが間違っているとは思えませんでした。私はその時は正しいと信じていた。民衆の王国は、きっと来るだろう。そしてそれは素晴らしいものだろうと

ああ、いえ、疲れてなどいません。ただ、あの時の気持ちを思い出して・・。彼女は私の一言で、フランスが進もうとしている事態を理解した。そして、彼女はそのまま押し黙り、私たちはしばし見つめ合っていた。彼女はあの時私を憎んでいたかもしれない。とても強い眼で・・・しかしどこか怯えているように見えた。
わたしはその眼を見て“今話したのは、沢山の可能性の中のほんのひとつに過ぎない。他の道に行くことの方が確実だろう”そう言ってしまいたくなりました。自分が与えた彼女の苦痛を、取り除いてあげたかった。しかし、その時誰か他の人間が彼女に話しかけ、私はそれきり話をする機会を失してしまった。

それから彼女に会う機会は二度とありませんでした。詩を書き続けている間も、忘れたことはできず、もう一度会いたいと思いながらも、自分からきっかけを作ることは出来なかった。実際、彼女はそれから間もなく、衛兵隊に移り、そして・・・あの、バスティーユで・・・命を落とした。私はそれを知ったとき、まるで世界が崩れ落ちたような気がしましたよ。
自分の立っている地面がひび割れ、砕け散って、奈落の底へ落ちていくような・・そんな。

何故って・・私は彼女に言ったのです。彼女の持つ武器が剣ならば、私の武器は言葉だとね。私の詩と、あなたの剣と、どちらが強いのかいずれ分るだろうと言ったのです。剣は命を切り裂くだけだが、言葉は未来につなげることができると・・。
私は大馬鹿者でした。彼女が絶対に王室側の人間だと考えていたのです。あの時私は彼女を仮想敵だと思っていた。腐りかけた古い木を後生大事に守っている軍人。私にはそう見えた・・だからこそ、彼女が傷つくようなことも言えた。あの眼を見るまではね・・。

それから彼女にどんなことがあったかは知りません。あの7月に、彼女は民衆の側に立ち、戦闘の矢面に立って死んだ。人づてに聞いたそのことしか。
私はそれから、気がふれたように詩を書きとばしました。最初は、革命とやがて来る新しい国への希望に満ちていた。だがすぐに気がついた。あなたも分ったでしょう。民衆が求めていたのは、正義ではなく血で、革命のリーダーが欲したのは、平等な社会ではなく権力だった。

権力者はめまぐるしく変わりました。堕ちた者は断頭台の上。その血を求めて民衆がまた集まる。私は叫びたかった。これはどこかで間違ってしまったのだと。 それからは、まあ、あなたもご存知でしょう。私は逮捕されました。革命側も反革命も、両方批判したのですから、当然の結果です。
ギロチンこそ逃れたものの、詩人としてはもう二度と口を開くな・・それが解放の条件でした。私の詩は、それだけ恐れられていたとも言えるでしょう。ええ、この手はその時のものですよ。どうもね、寒いと調子がよくない。右手が鉛のようで。後は身体のそこかしこ、古傷が痛みます。

そうしてわたしは此処にいるわけです。抜け殻になって。考えることすら止めてしまいました。・・・しかし、どうしても時折、暗闇に彼女の顔が浮かんでくる。一度会っただけなのに、過去のことは捨ててしまったはずなのに・・。彼女が私に問い掛けているような気がするんです。だが今の私にはその声が聞こえない。彼女はなんと言っているんでしょう

・・身捨つるほどの祖国はありや・・。昔読んだ詩の一節です。私が信じていたものは、もう死んでしまったのでしょうか。彼女と共に。
彼女の顔が浮かぶたび、考えるんです。彼女はなぜあの日バスティーユに立ったのだろう。彼女は何を信じていたのか、それは信じるに値するものだったのか。命を粗末にしたかったとは思えない。それでも戦ったのは・・何故だと思います?あなたには・・分りますか?
愛していたか・・ですって?私が?彼女を・・。

いや、それは・・ああ、そうか・・・そうか。 私は彼女を愛していた。いえ、今でも愛しているんです。だからこそ私は・・・・。

・・・・失礼、随分長い間黙ってしまいました。どうか笑わないで下さい。詩人とはいえ、自分の心が全て分っているわけではありません。あなたに言われるまで、何故彼女を忘れられないのか、気づかなかったのです。ましてや、自分を見つめることすら放棄してしまった今の私は。

あの眼を見つめた時から・・真実を見ることに決して臆さない、苦痛から眼を逸らさない、あの蒼い瞳を見たときから。ずっと。私は彼女を愛していた・・。
ならば、私は此処に留まるわけにはいきません。死んだも同然のこの生活を続けてはいられない。

彼女の前で、言葉は何よりも強い武器になる、そう言ったあの頃の私に戻らなくてはいけない。彼女のために・・彼女が信じていたはずのもののために。まだ、今からでも間に合うでしょうか。

有り難うございます。あなたのその本に協力させていただけるのなら、これ以上の喜びはありません。本当に、もう一度自分に詩が取り戻せるとは・・。あなたは私に新しい命を吹き込んでくれました。ええ、勿論、彼女の力でもあります。死してもなお、人を揺り動かしている・・。

私達は、私達の国は、何処へ行くのでしょう。あの頃信じていた場所に行けるでしょうか。そうですね、それは誰にも答えは出せません。でも、回り道をしても、どんなに遠い未来でも、きっと辿り着くことができる。私はそう信じるからこそ、もう一度詩を書きます。
さあ、参りましょう。此処から出て、混沌の世界へと。

――マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)

END