魚が出てきた日

夏の纏いつくような暑さと湿気がまだ残っていた。あたりに茫洋とした明るさを投げかけていた太陽が沈むと、ようやくパリは闇に沈んでいく。それでも、いまだ明るい場所もあるのだ。不穏な空気が流れていても、自分達の明日を栄華を信じて疑わない貴族達。その一握りの階級に絡みつくようにして、肥え太っているブルジョワ達。彼らのいる場所は、夜とはいえ、いや、夜だからこそ光り輝いていた。だが、他の大多数の者たちは、闇の下だった。

「あっちだ、あの角へ行ったぞ!」
「逃がすんじゃない。おい、そっちから廻れ」
男たちの怒号に、野良犬さえ怯えて逃げた。
アンドレは脇を走り抜けた数人の男の姿を、見るともなしに見ていた。最近、喧嘩やいざこざは珍しく無い。生活が困窮し、余裕の無い人間が増えているのだ。
たまの休暇、屋敷の用事でパリに出て、帰る頃には暗くなってしまっていた。夜のパリは日ごとに物騒になってくる。早く、辻馬車を拾って帰らなくては・・。そう、思ってあたりを見渡すと、ふと目をとめた路地の奥で動くものがあった。
目の端に止まったそれを、アンドレはぎくりとして振り返った。そして、路地の前に立ち止まり、もっと奥を覗き込んだ。
袋小路になっているらしい闇の中に、金色の色彩があった。その金の髪に囲まれた白い顔が、暗闇の中に浮き上がって見える。暗さと、その人間が怯えているのか、もっと奥へ後ずさって行くので、顔がはっきりわからない。
だが彼は、今頭に浮かんだ疑念を晴らさないではいられず、路地へと足を踏み入れた。その奥にいるのは女だった。闇に溶けこまない豪奢な金髪、瞳の色は・・。
「いたぞ!」
その時、背後で男の怒声が響いた。

アンドレが振り返ると、もう路地の入り口には数人の男が立ちはだかっていた。
「おい、そこにいるだろ」
「でてこい!」
アンドレは戸惑ったが、それが自分ではなく、奥にいる女に向けられた言葉だと悟った。
彼は、振り返ると、立ちはだかった男たちに向かって言った。
「あの女に何の用だ」
「お前には関係ない、どけ」
「女を引きずり出せ!」
向かい合った男たちの眼は殺気だっている。中には棍棒を手にしている者もいる。たかが女一人に、この人数で。何があったかは知らないが、男達の様子が尋常ではない。異様な殺気がみなぎっていた。
しかし、こうやって関わってしまい、そして、先刻の疑念が晴らす為にも、女の安全を確保しなくてはならない。
「この女の知り合いだ。俺が連れて行く」
「何だと?」
「・・お前の知り合いだって」
男達の間に一瞬、妙な雰囲気が流れた。女に対して彼らが抱いていた、恐怖や畏怖というものがアンドレの上に移された。
「お前もあの女の仲間か」
「お前も同類なのか」
「こいつもやっちまえ」
口々に叫ぶ連中は、声の大きさとは裏腹に、新たに出現した敵方に対する恐怖心が見て取れる。アンドレは、懐から取り出した物を男たちに突きつけた。
「怪我をしないうちに帰るんだな」
ピストルを見た先頭の男が一歩引いた。周囲の者も、その危険に気づいて後ろへ下がった。もう彼らには、我先に逃げ出したい、という考えしかないようだった。
だがその時、一人の若い男が前へ出てきた。
「・・女を渡せ」
その男は棍棒を持ち、アンドレのほうへにじり寄ってくる。
「その女は、兄貴を・・」
男の目は血走り、なかば正気を失っているように見えた。
「うあおぉっ」
獣のように叫ぶと、男はアンドレに棍棒を振り下ろして飛びかかった。・・と、次の瞬間、跳ね飛ばされたように、後ろにもんどりうって倒れた。アンドレの手の中のピストルからは硝煙が上がり、肩から血を滲ませた男は地面に転がっている。
「う・・わぁ」
残った男たちは仲間を助けようともせず、散り散りに逃げていった。撃たれた男は地面でのたうったままだ。

アンドレは、路地の奥を振り返った。女は今は立ち上がり、じっと彼のほうを見ている。彼がその女に近づこうと、足を踏み出した時、背後であの男が鈍く光るものを取り出して、アンドレに向かって駆け寄ろうとしていた。
「危ない!」
アンドレが声に振り向いた時、男はナイフを持った腕を、捻りあげられていた。
「・・アラン?!」
「これ以上怪我しないうちに、とっとと失せな」
アランは男の鳩尾に膝を蹴りこむと、その先の角まで引っ張っていった。男はよろめきながら逃げていき、やがて姿が見えなくなった。
「銃声がするから、思わず来てみれば・・。いったい、何の騒ぎだ。アンドレ」

女が路地の奥から姿をあらわした。肩から落ちる見事な金髪、抜けるような白い肌の美しい顔。・・そしてその瞳は、今まで見たこともないような、深い碧色だった。
アンドレは、先程通りかかった時に抱いた疑念が、霧散するのを感じた。あの時、確かに・・。
女は礼を言うでもなく、ただアンドレを見つめたまま、黙って立っている。彼はその深い瞳に見据えられると、なにか居心地の悪さを感じた。
黙ったままの二人を見て、アランが、一体何だ?と眼で尋ねている。アンドレは今更気づいたように、アランに一部始終を説明した。
話を聞いたアランが女の方を見て言った。
「おい、あんた、なんで今の男たちに追いかけられてたんだ」
それでも、女は黙ったまま首を振るだけだった。舌打ちするアランを横目で見ながら、
「もしかして・・口がきけないのか」
アンドレが問うと、女が頷いた。彼らは困惑して、顔を見合わせた。

「ともかく、此処にこうしていても仕方がない。家まで送っていこう」
そう言ったアンドレに、女は今度も首を振る。
「おい、ちょっと待てよ、家が無いなんて言うんじゃないだろうな」
アランが詰め寄ると、女は頷いた。彼女はアンドレの傍らに寄り添うと、その腕に白い手を絡めた。そして、ふと口元をゆがませ、声も無く笑った。

「ここだよ、俺の家だ。むさくるしい所だし、それに・・」
あんなことがあったから・・という言葉は、アランからは出なかった。
「まあ、あんたが良ければの話しだがな」
何を問いただしても、笑うか、首を横に振るかしかない女に、二人とも困り果てていた。アンドレは自分が関わって助けたとはいえ、素性の知れない女を屋敷に連れ帰るわけにも行かない。かといって、あの男達が大人しく諦めたかどうかも判らない以上、このまま、捨て置くことも出来ない。あの男達の、特にあの若い男の殺気は、通り一遍のいざこざではないような気がした。ただ・・。

「奇妙だな・・」
アンドレが呟いた。大人数で女一人を追い詰めながら、あの男たちは、どこか腰が引けていた。狩り立てていても、できるなら自分は手を出したくない・・そんな風に感じた。だからこそ、アンドレが出てきたとき、男たちは恐慌をきたしたのだ。女一人なら何とかなっても、この上『同類』が現れたのでは・・。何の意味だ?同類とは。

訳を聞こうとしても、肝心の女が話せないときている。困り果てているアンドレに、アランが助け舟を出して、とりあえず自分の家へ匿う事にしたのだった。
女は言われるまま大人しくついて来て、今は通された部屋の寝台の隅で丸まっている。疲れているのだろう。
「まあ、俺はあと数日は休暇だし、その間はかまわないんだが。どうする」
「とんだ迷惑をかけて、すまない。しかし・・」
アンドレは漠然とした不安がぬぐいきれなかった。
「まあ、ここにいる間に、分ることは聞いておくよ。といっても何も答えられないみたいだが。いや、答える気が無いのかな」
「読み書きは・・できる訳ねえか」
アンドレは首を振った。それはさっき確かめてみた。女は何も読めもしないし、ましてや書くことなど。・・どこか身を寄せられる場所を探さなければならないな。そう考えながら、女の寝ている部屋の前に立った。戸は開いていた。眠っていると思った女は、横たわったまま目を見開いていた。

その碧の瞳は、部屋の暗がりの中で、なおいっそう深みを増し、瞬きもせずに見据える視線に、アンドレは金縛りになったように動けなかった。女はふと目元を緩め、笑みを浮かべると、アンドレに向かって手を伸ばした。彼は寝台の横まで近づき、女を見下ろした。
・ ・似ている。そうだ、あの時も。
初めて路地で見かけたとき、彼はオスカルだと思ったのだ。まさかそんなはずは無いと否定しても、確かめずにはいられなかった。オスカルは屋敷にいるはずだ。しかし、俺が彼女を見間違えることなどあるのだろうか・・。そして、あの暗がりに足を踏み入れた。

だが、こうしてよく見ると、確かに別人だ。豪奢な金の髪も、冷たいくらいに整った容貌も、オスカルとは全く異なる。女は今、半身を起こし、白くひんやりした手を、彼の頬にあてていた。何よりもこの瞳が違う・・思考の一切を奪い、そのまま吸い込まれてしまいそうな碧の瞳。
女の指がゆっくりと動き、アンドレの唇をなぞっている。人差し指が、彼の口の中に分け入って、舌を押していた。
アンドレはされるがままに、黙って女の眼を見つめていた。何も考えられなかった。頭の中に霧がかかったようになり、自分が意思を持たない人形になったようだった。ただ、どこかで警告がなっている。
・ ・離れろ・・目をそらすんだ・・このままでは。
ガタン。部屋の向こうで何かが倒れる音がした。アンドレはその瞬間我に帰り、はじかれたように飛び下がった。アランが何か舌打ちしながら動き回っている。おおかた、酒の瓶でも倒したのだろう。アンドレは女の方を一度も見ず、急いで部屋から出た。背中に絡みつくような視線を感じながら。
あれは・・今のは一体なんだったんだ・・。
まだ暑さの残る中で、寒さを感じた時のように、肌が泡立っていた。

アンドレはアランに目配せすると、二人で外へ出た。
「なんだか、気になるんだ。あの女・・」
「何かあったのか」
言われてアンドレはどう答えて良いか分らなかった。最初、オスカルと間違えたことも、先刻の振る舞いも、言葉にしてしまえば陳腐なことだ。
「女に事情が聞けないなら、あの男を捜すよ」
「おい、まてよ。男って、お前が撃ったあいつか?」
「女に兄をどうにかされたって言っていた。あの男なら女の素性を知っているかも」
アランは、呆れたように首をすくめた。
「確かにちょっと奇妙な女だが。どうしてそんなに急いで女のことを調べなきゃならない?第一、あの男を見つけられたとしても、仲間がいたし、調べるどころか返り討ちにあうのがおちだと思うがな」
アンドレは考え込んだ。アランの言う通りなのだ。
「もう大分遅いぜ。お前、屋敷に帰らなくて良いのか」
「ああ、そうだ。今日は屋敷の用事で出てきたから」
「まあ、とにかく一度帰りな。お前もしばらく休暇だろう。その間に調べるなり、女を預けられるところを探すなり、すりゃあいいさ」
アンドレは今しがた出てきた、アランの家・・といっても間借りだが、の扉をじっと見つめた。女に対する不安は、全てが自分の妄想かもしれない。
「ああ、じゃあすまないが、今日は帰るよ。明日また来る」
アランは、じゃあな、と言って踵を返し、家へ入ろうとする。アンドレはふとその後姿に声をかけた。
「アラン・・女の眼を見るなよ」
「・・あぁ?」
「あ、いや、すまない。何でもない・・また明日」
アランは怪訝そうにアンドレを見ていたが、家に入っていった。

―――夢を見ていた。暗闇の中に浮かび上がる一人の女。後ろを向いたまま。
オスカル、オスカルか・・何故こんなところにいるんだ?
どこかで水音がしていた。何かが水の中で跳ねる音。
彼の足元に、得体の知れない、湿ったものが纏わりついている。
見るな・・足元を見ちゃいけない・・見てしまえば、戻れなくなる―――。

夏の朝の陽光が彼の目をさした。起き上がろうとしても、身体が石を飲んだように重かった。寝苦しさの原因になった夢の記憶は、もはや消えてゆく。
2・3日は何も用事は無い、お前もゆっくりすると良い・・。休暇に入る前、オスカルはそう言っていた。日ごとに厳しくなる情勢の中で、過剰な勤務が続いていたのは、自分も彼女も同じだった。お互い疲れがたまっている。彼女も体を休めたいのだろう、・・だが、もしかしたら、避けられているのかもしれないと思う。

衛兵隊に移る前の、あの出来事。あの後、暫くは目も合わせづらかった。お互いにもうそれ以上、あのことに触れず、表面上は何事も無かったかのような日々が戻ってはきたが。
「どうしようもない・・」
彼は呟くと、重い身体を起こした。ともかく今日はアランのところへ行かなくては。

一方アランは、何を聞いても首を振るばかりの女にうんざりしていた。食事すら食べようとしない。警戒しているのか、そのわりには昨夜着いてくるように言ったら、素直に従ったのに。でも、それは
「アンドレが目当てだったのかも知れねえな・・。なんといっても、危ないところを間一髪助けたのはあいつだし」
アランはなんだか気詰まりな女と二人でいるのが鬱陶しく、ちょっと出てくる、と言い残して部屋を出た。まったくあいつが変な拾い物をしたせいで・・アランが建物から外へ出ると、こちらに向かってくるアンドレが眼に入った。
「女はどうした?」
「部屋にいるよ・・俺ちょっと出てくるわ。すぐ帰る」
アンドレは言いもって歩いていくアランを暫く見ていたが、首を振って、溜息をつくと階段を上がっていった。

アランは特に行くあてがあったわけではなかった。歩きながら、足が向いたのは、母と妹が埋葬されている教会の墓地の方向だった。本来なら自殺した妹は、そこに葬られることは無かっただろう。それはオスカルの尽力だった。
彼女のお陰で何とか正気に戻った自分も、気づけば抜け殻のようになった母を抱えて、途方にくれた。そんな俺たちを支えながら、葬儀や埋葬の手配までしてくれた彼女には、感謝してもしきれない。いや、ただ感謝だけなのだろうか・・・・。アランは心の隅に浮かんだ感情を、気づかぬ振りをして封じ込めた。

まだ日はさほど高くない。墓地には涼やかな風が吹き抜けていた。墓の前に立つと、少し先で、埋葬が行われていた。人夫が土を掘り、その傍らには神父と一人の男。寂しいものだ、妹の時も、俺と隊長とアンドレだけだった。母はもうその時ベットから起き上がれる状態ではなかったから。 そんなことを考えながら見ていると、おや、と思った。墓の横の男は肩に包帯をし、布で腕を釣っている。あの男・・ひょっとして。

アンドレが家に入っていくと、中はほの暗かった。
「いるのか?」
声をかけながら、女が昨日いた部屋へと向かう。昼間だと言うのに、そこはもっと薄暗く、 明るい戸外から入ってきたアンドレは、暫く目がなれなかった。 眼を凝らすと、さほど広くも無い部屋の奥の寝台に、女が座っているのが見える。アンドレは声をかけようとして、立ち止まった。足に何かが触れたのだ。

アランは男が一人になるのを待った。人夫も神父も去って、その間中、放心したように立ち竦んでいた男は、自分が一人になったことも気づかないようだった。アランは背後から近づくと、男の肩を叩いた。
「・・ひぃいぃ」
男は奇異な悲鳴をあげると、跳び上がった。その目は大きく見開かれ、恐怖に凍りついている。
「ちょっと聞きたいことがあるんだよ・・」
アランは男の態度を訝しく思いながらも、詰め寄った。
「お前が昨日追いかけてた女のことだ」
男の目がますます大きくなり、顔から血の気が引いた。

アンドレは足元に目をやった。これと同じことがいつかあった・・確か今朝の・・いや、あれは夢だ。足元には、死んだ魚が転がっていた。

この魚は確かに死んでいる。腸がはみ出ていて、腐臭が漂っていた。なのにその眼がアンドレを睨んでいた。気付けば、魚は一匹だけではなかった。部屋の中に無数に転がり、のたうっている。断末の苦悶に身を捩じらせ、その度に、びしゃっと水音が響いた。
足先から冷たい感覚が昇ってくる。足首まで水に浸かっていた。自分の周囲から一切の明かりが消えている。その暗闇の奥で、光る二つの眼があった。・・・あの女だった。

女が立ち上がる・・・近づいてくる。いつのまにか、女は何も纏っていなかった。
ここから逃げろ、頭の奥でがんがん響く声がした。だが動くことはおろか、瞬きすら出来なかった。
『アンドレ・・・・・私の声が聞こえるのね・・・』
声はその口から出たのではなかった。頭の中で直接鳴り響いた。

女が笑った。その足元では魚が踏み潰され、息もつけないような腐臭があたりを覆い尽くしている。
女の両手が差し出され、アンドレの頬を包んだ。その掌が濡れていて、人間の皮膚にはありえない、ざらついた感触が伝わってくる。顔が近づいてくる、しかし、その眼は・・。

瞳孔が無かった。ただの丸い緑の玉。その玉が、ぐるり、と廻る。魚の眼だ・・・。唇が重ねられて、舌が差し込まれてくる。暖かく柔らかいはずの唇は、固く尖っていた。強引に舌が絡めとられ、貪っていく。アンドレは全身が総毛立ち、吐き気が昇ってきた。だが、動くことが出来ない。金色の髪がざわざわした音を立てて、彼に絡みついていた。

離せ・・渾身の力で、腕を上げて、女の身体を押し戻そうとした。女の顔が離れ、口元が歪んだ。
『私では駄目というわけ・・・・。なら、あなたの・・望むものをあげる。あなたが欲してやまないもの・・』
女の身体がほんの少し離れると、まるで霧がかかったように揺らめいた。ずるっ、と彼の手が触れていた女の肌が溶け出した。まるで粘膜のように、掌に絡みつく。そして、

彼の前にオスカルが立っていた。
揺らめく金色の髪、深い瑠璃の瞳、白皙の肌・・腕が彼の首に回され、柔らかい身体が押し付けられる。
・ ・馬鹿な、こんなことが。
彼は後ずさろうとした。だがその柔らかい腕がしっかりと彼を捉えて離さない。下から彼を見上げる瞳は、まぎれもなく彼の求めてやまない女のものだった。
『・・・・・アンドレ・・愛してる』
どれほど望んでも得ることの出来ない、身体と言葉があった。アンドレの脳髄の中で最後まで残っていた何かが弾け飛び、次の瞬間、絡む裸身を抱きしめていた。

唇を貪って、その間にも手が肌を探っていく。白い胸の突起をはさみあげて、掌で包み込むと、腕の中のものが切なげに眉を寄せる。身体の芯が爆発しそうに熱くなり、猛り狂った欲情が、出口を求めて溢れ出そうとしていた。
細い腰を折れるばかりに引き寄せて、胸に顔を埋める。狂ったように紅い突起を吸い上げながら、手は熱く湿った箇所に分け入ろうとしていた。
『・・はっ・・あぁ・・・』
声があがる。その声すら、愛しい女と同じ、いや彼女そのものに思えた。夢の中でしか抱けなかった女の・・。

どちらかが体のバランスを崩し、床に倒れこんだ。背中に当たる断末の魚の苦悶も、最早意識できなかった。白い肢体が弓なりにのけぞり、髪が自らの意思を持った生き物のように広がって、彼に纏いついていった。胸から鳩尾へ、腰へと唇を這わせながらも、その皮膚が奇妙にざらつき、濡れていることも気づかない。
ただ貪る、喰らいつく、囚われる、取り込まれて融けてゆく・・五感がすべて快楽を喰らい尽くすことのみに向けられ、他の思考は一切が奪われていた。
それの手が、彼の肌の上をすべるたび、どろりとした腐臭の漂う水の跡がついた。からまる髪の間を縫って、手と唇が彼を貪っていく。濡れた掌で包み込まれ、舌で吸い上げられる。
彼は今にも弾けそうな処まで高められながら、それは解放を許さなかった。彼の身体は焼け付く欲望の出口を封じられ、女に対する渇望で喉が切れそうだった。
「それ」は嘲笑を浮かべ、快哉を叫びながら、彼を見下ろして翻弄していた。
『・・アンドレ・・私のもの・・・・私の糧・・決して離さない・・・』

「おい、一体どうした?あの女がどうかしたのか」
アランは男を詰問していたが、昨日と打って変わって、男は恐怖に抜け殻になって首を振るだけだった。
「そういや、さっきの墓は・・誰のだ?女にどうかされたかと言う、お前の兄貴か?」
言われて男は始めてアランを見た。
「あの女、・・あれは、あんたのとこにいるのか」
「ああ、そうだ」
「早く・・どっかへ追い出せ。さもなきゃ逃げ出せ。あれは・・あれに関わったら・・」
「だから、何だってんだよ!」
「兄貴はあれに殺された・・いや、喰われちまったんだ」
何時の間にか、太陽は厚い雲に隠されていた。風はもうやんで、辺りはどんよりと湿った空気だけが覆っている。

「あれを兄貴がどこからか連れて来たのは、数日前だ。それから、一歩も家から出てこなくて、まあ、女かいるんだから無理もないかと思って、気にしてなかった。それで昨日、用事があって仲間と兄貴の家に行ってみたら・・そしたら・・・そしたら・・」
「そしたら?何だ」
「・・部屋が水浸しで、兄貴が床に転がってた。眼も口も、信じられないくらい大きく広がってて・・それで・・」
男の身体が瘧のように震えだした。アランも知らぬ間に肌が泡立っていた。
「あれが・・兄貴の上にかがみ込んで・・食ってた。兄貴の・・・兄貴の・・舌を」
「・・そんな馬鹿な・・」
「本当だって!兄貴は身体がずぶ濡れで、手や足が海老みたいに反り返って・・あああ・ ・ ・うわ・・うぅぅ」
その記憶が何かを失わせたのか、男の目の焦点が失われてゆき、ずるずると身体が土の上に崩れ落ちた。
「アンドレ?!」
アランは全速力で墓地から駆け下りていった。

アランは切羽詰った不安にかられて、家に通じる階段を駆け上がった。すると、階下の部屋の扉が開き、老女が険のある顔を覗かせた。
「アラン、いったい何事だね、この臭い!」
言われてみれば、なんだか奇妙な臭いがした。それはアランの記憶の底をかき乱し、忘れたい忌まわしい思い出が蘇った。まさか、そんな・・。
「あんたの部屋からだろう。何とかしとくれよ、まったく」
忌々しげに老女が音を立てて戸を閉めても、アランは立ち竦んだままだった。

臭いが蘇らせた記憶、それはまだ生々しく、彼の中では血を流していた。これは、ディアンンヌの・・妹が死んで、腐敗していった、あの時の臭いだ。彼はずっとその亡骸の傍らにいたのだ。その間どうしていたのか、はっきりした記憶は無くても、この臭いは脳髄に強烈に刻み込まれ、忘れることは出来ない。
「・・・アンドレ」
いったい、自分の部屋で何が起こっているのか。アランは萎えそうになる自分の足を、忌々しく思いながらも、階段を駆け上がっていった。

アランはドアの前に立つと、息を静めようとした。耐えきれない臭いがあたりに満ちている。それだけでも胃がせり上がってきそうだ。彼は意を決して、勢いよくドアを開いた。そこには。

昼のはずなのに、部屋の中は真っ暗だった。
「アンドレ。どうした、いるのか?」
アランが叫んでも何の返答も無い。彼が女がいた部屋に入ろうとすると、足元が冷たくなった。アランは目の前の光景に、釘付けになった。

無数の魚が床でうねっている。その中央に黒い影が二つあった。床にのびている男の上に、黒いもやのようなものが覆い被さっていた。目が慣れてくると、それが女の形・・かろうじて、女のように見えるもの・・だとわかった。それがゆっくり顔を上げ、光る緑の眼が真っ向からアランを見据えた。
「アンドレ、おい!」
アランの声は最早悲鳴だった。
「・・・来るなよ・・・」
その声は聞きなれた友人のものとは思えなかった。
「アンドレ?」
「・・ほって置いてくれ。俺に・・・かまうな・・・」

異形の者は、ゆらり、と立ち上がった。髪が蛇のようにうねり、その顔は見えない。
その金の糸の影から覗く口元がゆがんだ。笑っているのだ。
・ ・びしゃん
足元の魚がはねた。アランは声も出ず、目をそらすことも出来なかった。叫びたかったが、今、声をあげてしまえば、気がふれてしまうまで止められない事が分っていた。
床までうねった金髪が揺れ、その姿が徐々に変化していく。見る間にそれは、長い黒髪に黒い瞳、自分に良く似た面持ち。首括って死んだはずの・・妹になった。
・ ・『兄さん』
ディアンヌは花嫁衣裳を纏っている。それは婚姻の衣装でもあり、経帷子でもあった。
止めろ!
アランはありったけの力を振り絞って、目をそらした。あの眼を見てはいけない。あの深淵を覗き込んだら・・。
『・・・・ふふふ・・』
異形の声が部屋中にこだました。気がつけば、足に金の糸が絡みついている。振り解こうとしても、その蜘蛛の糸は鋼のように皮膚に食い込んでいる。
『・・アラン』
頭の中に聴こえたのは、今度は別の声だった。彼は驚愕して化け物を見た。金色の髪、深い海の色の双眸・・。立っていたのはオスカルだった。その身体には、金の糸しか纏っていない。
白い裸身はあまりにまばゆく、腕は彼に向かって差し出されていた。長く形の良い足がふと動き、足元の魚をつぶした。彼に近寄ろうとしているのだ。
びちゃっ、と鈍い音を立てて踏み潰された魚の眼は、しかしまだ開いていた。その眼がアランを見つめ縛り上げている。
『お前が好きだ・・アラン』
赤い唇が動き、しかし声は直接頭に響く。その声は確かにオスカルのものだった。アランはそのまま動けなくなった。
金髪がうねって彼にかぶさり、唇が合わせられる。
その時、アランの背後の壁で、何かが光った。もつれ合った二人の影が床に崩れ落ちると同時に、ガシャッとガラスの砕ける音が響いた。

彼らの周囲に、壁に掛けられていた鏡の破片が散らばっている。アランは視界をふさぐ金髪の向こうに、破片に移ったアンドレの姿を見た。だがそれがもう頭の中で意味をなしていなかった。鏡に映った影が、ゆっくり立ち上がり、その手の中に拳銃があるのを見ていても・・。
銃口はまっすぐ彼に向けられている。指に力が込められ、低く鋭い音が部屋に轟いた。

『ぎゅうわぁぁっぁ―――』
悲鳴とも呪いともつかない声をあげながら、女の頭が弾け飛んだ。溶け出した頭部から、粘膜のようなどろついた物が、アランの上に降ってくる。 呆然と目を見開くアランの前に、アンドレが立っていた。手の中の拳銃からは硝煙が上がっている。

「ありゃ・・・いったい何だったんだ?」
魚の影もなくなった部屋の隣りで、二人はへたり込んでいた。すでにあの臭いも無い。
あの化け物がいた痕跡は、男達の体にしか残っていなかった。
「さあな、人間の頭の中をのぞきこんで、その望むものに姿を変えて・・取り込んで喰ってしまう。・・そんな化け物がいるのかな」
始めてあの路地で見かけたとき、あの時もそうだったんだろうか。オスカルの姿をうつすことで、俺を引き寄せようとしていたのか。
「・・望むもの・・か」
アランは黙り込んだ。自分の望みは、手に入れたいと願ったものは・・オスカルだったのか。今まで目をそらしてきたことに、改めて気がついた。
「しかし、お前もよく正気に返ったよな。“ほっといてくれ”なんて聞いたときには、もう駄目だと思ったぜ」
「ああ・・あの時は・・。あの場所から動きたくなかった。あのまま溺れていたかった。何も考えず沈んでしまえば、楽になれると・・」
アンドレは確かにあの時、そう思った。すぐ傍にあっても、どれほど望んでも手に入らない・・ならば、まがい物でもかまわないから・・。
だが、アランとあのオスカルの姿をしたものが、抱き合っているのを見て我に返った。拳銃を持ち上げた時、俺は・・どっちを撃つつもりだった?化け物か、それとも・・・。

「アンドレ、俺は・・」
「・・ん?」
アランは次の言葉を口に出せなかった。肩で息をつき、苦笑いをして言った。
「俺、一生魚は食えねえや」
「まったくだ。俺もだよ」

それから二人で外へ出て、陽も高いというのにしこたま飲んだ。夜もくれてから、痛む頭を抱えて家路につく二人は気づかなかったが、セーヌ河畔でちょっとした騒ぎがあった。川岸に大量の死んだ魚が浮かんでいたのだ。魚たちは白い腹を見せて浮かび、中には、潰されたかのように、腸が出ているのすらあった。
暗く危ういパリの夜に、濁った臭いが漂う。川面には、歌いさざめく者たちの、夜とは思えぬ灯りが煌めいていた。この河が、また別の腐臭で覆われるのも、もう遠い日ではない・・。
だが、誰もまだそれを知らなかった。

END

参考;C・L・ムーア 「シャンブロウ」