とおり雨

愛は心臓で生まれ、快楽は脳で生まれる。

そんなことを考えた。初夏の日の午後だった。
ふと彼の指に眼が止まり、それが記憶の底をかき出した。ほんの数日前の行為が鮮やかに脳裏に蘇り、一瞬自分がどこにいるのか分らなくなった。彼の指が刻んだ記憶・・。それはあまりに唐突に現れ、強く身体の内部を揺さぶった。
皮膚の隅々まで緊張が走り、視界が狭まってくる。高まる鼓動が耳の裏側に届く。血の流れが早くなり、手のひらにじんわりと汗が滲んできた。

記憶は、陽光が目を刺す午後から、屋敷の奥の暗闇に閉ざされた部屋へと、私を運んでいく。ほんの少し唇が開き、息が深く熱くなっていく、舌が何かを求めるように蠢く。そして身体の奥が収縮していくのがわかった。

“私はいったい・・何を考えている・・こんな時に”
俯いたまま、ほんの少し視線を動かして、彼の横顔を盗み見る。彼は何も気づかず、机の上の書類に目を通していた。

見なければ良かった。身体をかき乱す記憶は、薄まるどころかますます勢いを増していた。
彼が眼を閉じて、私の肌に舌を這わせる時、その黒い髪がどんな風に身体の上を滑っていくのか、私は知っている。その糸の軌跡が、刺青のように皮膚に刻まれるから。
私は、青い軍服の上から左腕を押えた。そこには彼がつけた痕がまだ生々しく残っている。彼はいつも、誰にも気づかれないところに痕をつける。私と彼だけが見ることのできる場所に・・。この邪魔な服の袖をめくって、赤い痣を確認したいという欲求はあまりに強く、それを押えるために、私はありったけの力を指先に込めた。

「オスカル?」
呼ばれて、その声でようやく昼の執務室の中に戻った。
「どうかしたのか」
問う声は平静で、その何気なさに憎らしくなる。こんな風に落ち着かない気持ちにさせるのは誰のせいだ。思えば彼と愛しあうようになってから、以前と全く違った自分になっているのに、あらためて気づいて愕然とする。
人を愛して応えられる喜びと、肌を合わせる安堵と何者にも勝る快楽を知ってしまった。それは知恵の林檎。罪の実を食べる前とは、何が変わってしまったのか。

私は応えずに視線を落としている。彼の眼を見たら、今、自分の頭の中にあることが伝わってしまいそうで怖かった。

そうだ、踝を噛まれたこともある。そんなところにまで印をつける彼が、今は平然と、いぶかしむような視線を私に投げかけている。
踝からふくらはぎの内側を伝って、少しざらついた舌の表面がなぞっていく。くすぐったいと思う間もなく、痺れるような感覚に支配されて何も考えられない。次はきっと腿の内側にまでくるんだ・・そうぼんやりと頭に浮かぶと、知らず、身体の奥が熱くなる。舌が到達する前に、指が熱い裂け目に入っていった。指先の冷たさに一瞬緊張が走り、細い声が上がるのを止めようが無かった。

何故彼の指はあんなに冷たいんだろう、身体も心臓も熱いというのに。冷たく、長く、羽根が触れるようにかすかに滑っていく指・・記憶に刻まれた快楽は、尽きぬ泉のように湧き出てくる。

私は頭を振った、小さく息をつき、彼の顔をみないようにして立ち上がって、窓辺へ近づいた。風を通すために少しだけ開けられた窓から、5月の薫風が流れ込んでくる。若葉の香りを感じながら、私は記憶を隅に追いやろうとした。
陽光は晴れやかで、木漏れ日を反射する青葉は目に痛いほどだった。薫る風、芽吹く葉の青、清浄なる5月。何もかもが静かで美しく、夜の空気はどこにも感じられない。
私は、内部を侵食していた夜の闇が遠ざかっていくのを感じて、安堵した。本当にどうかしていた、明日は休暇だから、すこし馬を走らせるのもいいかもしれない。子供の頃やったように、彼の目を盗んで遠出をする。一人で、ただ風を肌に感じながら走るのは心地いいだろう。そうすれば、もうこんな風に持て余す記憶に振り回されることもない。
そう考え、窓辺を離れようとして、ぎくりとした。すぐ後ろに彼が立っていた。
「・・何を考えてる?」

低い声が、左の耳に届く。彼の顔が私の肩に触れんばかりに近づいているのが分る。暖かな息が今にもかかりそうで、私は身じろぎした。緊張を悟られないように、平静な声を出したつもりだったが、出た声は掠れていた。
「何でもない・・から、そこをどいてくれ」
「嫌だね」
「・・なっ」
彼は私に触れていない。ただ背後に立っているだけだ。だから、押しのけて動くこともできるはずなのに・・。できるのは、僅かに苛立った、細い声を出すことだけだった。
「少し風にあたりたかっただけだ。仕事を・・」
「何を考えていたか、当ててみようか」

一瞬で血が熱くなった。彼の言葉には愉悦が含まれている。その声音に震えた。
「俺の指が・・」
彼の息が髪を湿らすのが分かる。溜め息が上がってくるのを悟られるようで、体を動かせない。
「お前の背骨の上をたどる・・」
耳を塞ぎたかった、でも到底できない。
「うなじに降りかかった金の糸を手にとって口づける」
そうだ、彼は私の髪を弄ぶのが好きだ。手にとり、指をからめ、時には軽く引っ張って、私が顔をしかめるのを楽しんでいる。そうしておいて、最上級の淑女にするように、限りない敬意と愛情を込めて髪に口づけする。私はただぼんやりとそれを眺めていた。
自分の髪がそんな風に扱われることに、驚き、そして陶然とした。
「手のひらが、背中を全部塗りつぶして、腰へ降りていく」
うつ伏せになった私には彼の顔が見えない。見えるのは握り締めた自分の指と髪だけ。
でも彼を全身で感じている。彼の手のひらはいつもしっとりと湿っている。そんなこともこれまで知らなかった。私の肌は、彼の手が触れたところだけが、小ぬか雨に降られた地面のように、水に覆われていく。
「舌と歯でお前の指を吸い上げて」
握り締めた私の手を開くために、彼は私の指をひとつずつ捕らえていく。そうしている間に・・。
「そして、手が、・・湿った叢を探り出す」

彼は、息がかかるほど側に立って、低く小さな声で囁いている。それだけなのに、身動きひとつできない。

「お前の身体が固くなるのが分る」
熱い・・。風はこんなに涼やかなのに。
「指が花弁に辿り着くと、お前が小さく声をあげる・・いつも、声をあげるのをこらえているのを知っているよ」
顔に朱が走った。行為のたびに、できるだけ声を立てないようにしていた。厚い扉の外に洩れるかも知れないからでなく、次第に高くなってくる声を抑えることで、快楽に沈んでいく自分を繋ぎとめたかったからだ。彼が気がついていたなんて。

「いいかげんに・・」
声をあげればいい、今ここでは。大声をあげて、彼を叱責して、押しのければいい。何故できない、何故こんなか細い声しか出ないんだ。

「だから俺は、もっと深くお前を沈めたくなる・・。浮かび上がれないほどの深みへ。わざと指を届かせずに、ゆっくりと周囲を探っていく。舌でお前の肩の骨の上をなで上げながら」
熱い・・熱い。この邪魔な軍服の襟を緩めたい。
「お前が髪を揺らしながら振り向いて、俺の手を押しのけようと身体をよじる。お前の手には全く力が入っていないのに。眉根を寄せた横顔が、もっと俺を昂ぶらせる。分っているだろう」
私は知っている。彼の手がだんだん熱を帯びてきて、指先が私の花芯に達している。私は彼の熱くなった塊を肌に感じて、もう何も考えられない。声を立てずにいようとした抗いすら、どこかへ消えてゆきそうになる。そして舌が・・。

「雨が・・・」
「え?」
言われて、窓の外に目を向けると、陽はまだ射している。なのに霧のようにかすかな雨が緑を濡らしていた。
「お前の・・・・のようだな」
一瞬で、外の緑が夜の闇に変わった。彼が私に顔を埋めて、ゆっくりと襞を開きながらそう言ったことがあった。私のそれが、雨に濡れた若葉のようだと。
「葉にかかる露が流れ出す」
葉を湿らす雨のように、彼の言葉が私の身体を濡らしていく。
「俺はその露を掬い取って、もっと深くお前の中にわけ入って行く」
「アンドレ・・」
「お前の露は、甘いよ」
もうこれ以上耐えられそうになかった。足から力が抜けていって、窓枠を掴んでいる右手だけで、かろうじて立っている。彼はそのことに気づいているはずなのに、決して手を触れようとしない。
「襞の中は熱くて、指に纏わりつく」
息が苦しい・・。
「かろうじて保とうとしているお前の表情を見ながら、それを壊したくなる・・。顔を埋めて、舌でそれを捕らえて・・最後の抗いを崩すために」

「やめろっ!」
ありったけの声を出した。これ以上聞いていたら、戻ってこれなくなりそうだった。ようやく呪縛が解け、怒りをこめてアンドレの顔を振りかえる。彼のたった一つ残った黒い窓。そこにはただ寂寥だけが広がっている。私はその表情に当惑し、怒りがひいていった。
「・・・何故、こんなことをする・・」
彼は石になってしまったように動かず、深い息をひとつついた。
「アンドレ・・」
「俺は・・恐ろしいんだ」

雨はいつの間にかやんでいた。5月の晴れ間に、ほんの少しの白昼夢のような通り雨。
「屋敷の奥の、夜の闇のなかでお前と触れ合っても、朝になれば夢のように思える」
「それは・・」
「俺達は、どちらが言うでもなしに、昼と夜を分けていた。夜のなかで幾ら溺れても、朝になれば以前と変わらない日々をすごす。昼の陽光の下では、闇などどこにも感じられない・・俺は、どちらが現実か時々わからなくなる」
私は無意識に彼に手をのばした。でも触れる前に、彼は身体を引いた。
そうだった、彼はたとえ他の眼がなくとも、昼は私に触れない。言葉に出していったわけではなかったが、私がそれを望んでいたから。
溺れるのが怖かった。以前と違う自分になるのが恐ろしかった。彼のやさしい指が、ほんの少し頬に触れるだけで、他の何もかもが消し飛んでしまうだろう、自分をわかっていたからこそ―――見つめて、触れ合って、愛しあうのを夜だけに留めたかった。
そして、彼は黙って私の望みを聞き入れた。

「アンドレ・・」
私は手を伸ばし、彼の見えないほうの眼にかかっている髪をかきあげた。そこに刻まれた赤い跡をゆっくり指でたどり、唇にそっと触れる。
「お前がつけた痕は、私の肌に刻まれている。それは昼でも夜でも消えはしない。だから・・」
私は指を彼の口に忍び込ませる。歯列をなぞり、舌を・・私の皮膚が覚えているその感触を確かめた。
「私に触れて・・・私を確かめて。私はここにいる」
彼はためらいながら私の手を取って、手首に口づけた。
「ここにいる・・お前を愛している」
「オスカル・・」
彼が続けて何かを言おうとしたが、私は唇でそれを封じた。彼の腕が私を抱きしめて、その手が私の髪を優しく撫でている。先ほどまで感じていた狂おしい疼きよりも甘いものが、身体を駆け巡る。愛情で満たされることの安らぎが。

雨に濡れた新緑が、ただ陽光に揺れていた5月の午後のことだった。

END