SILK

夕焼けを映した緋色、夏暑く晴れた空を染めた濃い青、秋の道に舞う枯葉の黄。とりどりの布が部屋一面に広がりそこは色の洪水だった。パリで有数の仕立て屋バルソン夫人の聖域の前に私は佇み、声を失っていた。これほど美しいものがこの世にあることを私はそれまで知らなかったのだ。

 

7つの時、田舎で食い詰めた両親につれられてパリに来た。悪臭のする狭い路地の奥の部屋は息がつまりそうだった。両親の諍いに耐えかねて走り出た表通りで、私の目の前を鮮やかな色彩が横切った。始めて間近に見る貴婦人が、ドレスの裾を揺らしながら馬車に乗り込むところだったのだ。私は呆然と様々な花が埋め込まれた生地に手を伸ばした。すると、叱責の声とともに肩に痛みが走った。御者に鞭で打たれたのだ。

馬車の扉が閉まる前、一瞬中の貴婦人と眼があった。私は侮蔑を浮かべたその表情より、真っ白に塗られてつけボクロをいくつもつけた化粧に見入っていた。生地は美しいのに、この乾いた地面のような膚はどうしたことだろう。そう思う間に馬車は遠ざかっていった。私はいつまでも土埃をあげて遠ざかる馬車を見送っていた。

次の週から洗濯場での日々が始まった。毎日、陽の出ている間は川辺にかがんで洗濯物を石にたたきつける。手は真っ白になりひび割れた。そうして数年経っただろうか。裏通りには貴婦人など通らない。帰れば薄いスープの夕食のあと疲れ果てて眠るだけの私は、あのドレスの記憶も薄れていた。そんなある日、私は仕上がった洗濯物をある場所に届けるように言われた。少し遠く、晴れやかな表通りに面したその店の裏手から入ると、沢山の女達がいた。さざめく女達の後ろからふと室内を見ると、部屋中に布が広がっていた。

網膜に色が雪崩れ込んでくる。瞬きもせず、息もできず、私は布の色と細部まで凝らされた細かい刺繍と縁取られたレースの目のひとつひとつを見てとっていた。

腕をひねり上げられてから、私は床に盛大に洗濯物を取り落としていたことに始めて気づいた。横で怒鳴っている同じ洗濯場の女の声も聞こえていなかったのだ。あわてて洗濯物を拾っていると、騒ぎに奥から一人の女性が顔を出した。お針子たちが一斉に押し黙り、その女性に道を明けた。さらさらと鳴る絹地の音が近づいてくる。屈みこんだ私が目を上げると、深い青のドレスを着た女性がいた。私は立ち上がった。いつか見た貴婦人と違って、この女性は美しい膚をして、紅は控えめに口に塗られていた。

洗濯場の女が私の頭を押し付け、非礼をわびた。女性は皆に仕事に戻るように言うと、踵を返しまた奥の部屋へ戻っていった。私はまだどこか夢の中にいるようで、女性の消えた奥の部屋の扉と、立ち働くお針子の手元の布から目が離せなかった。

それから、バルソン夫人の店への配達は必ず私が行った。重い荷物を運ぶのも苦にならなかった。店に行けば美しい布に会える。お針子たちと顔馴染みになった私は、時折布の切れ端に触らせてもらっていた。そんな時、わたしはいつも自分の手を恥じた。滑らかな布を手に取るのに、私の指は相応しくない。かさついた指先で布が傷みでもしたらと思うと、耐えられなかったのだ。私はいつも精一杯掌に息を吹きかけ、擦って暖めてから布に触れた。手の甲に乗せると、様々に光沢が揺れる絹地。うっとりと見つめていると、誰かが立っていることに気づいた。私の前に、バルソン夫人その人がいた。

布が好きか、と夫人は問うた。私は声も出せずにうなずいた。夫人は私の手に小さな壜を渡すと、明日からこの工房に来るようにといった。

どうやって家に帰ったのだか覚えていない。父はとうに家にいず、残された母と妹は私に給金のことを聞いてきたが答えられるはずもなかった。わたしは手に握り締めた壜と、明日からあの布の洪水の中にいられることの興奮しか頭になかったのだから。ひとりになると、壜の蓋を開けてみた。ほのかに良い香りのする、白いクリームが入っていた。

お針子たちは皆そのクリームを使っていた。朝と晩、水仕事をした後、必ず薄く塗り、手を滑らかにしておく。あかぎれで滲んだ血が布についたり、細かな刺繍を傷つけないためだ。私は雑用を言いつけられるだけの下働きだったが、常にそれを使っていた。日毎に私の手は少女らしい輝きを取り戻し、やがて私は針を持つようになった。

夫人の店には様々な女性達が来ていたが、私はただ裏の工房で針を動かすだけだった。袖に繊細なレースを縫いつけながら、布地やデザインからどんな女性が身につけるのかを想像した。このレースはきっと、若い女性の白い華奢な腕を飾るのだろう。扇子を広げるとレースのドレープも広がり揺らめくだろう。扇子の陰になった誘惑のまなざし。私は女達がさんざめく夜会の美しさを思った。

夫人の客達は、富裕で上品な女性が多かったようだ。仕立て屋は独特のカラーを持っていて、バルソン夫人は穏やかで趣味がいいとの評判だった。夫人の指が女性達の身体をなぞり、布がひとつの芸術品に作られていく様子は、見ていて飽くことがなかった。

私もあのように女達を飾りたい。膚の色に合う布はどれか、タックをどれほどとればなだらかな曲線ができるのか、襟の飾りは何処までたらせば品を保てるのか。私は充分に知っていた。私のこの手で、女達が美しくなり、鏡の中を己を見つめて感嘆のため息を漏らす。その声を聞きたかった。布はそれだけでは美しさが完成しない。仕立て上げられ、女が身に着けてこそ輝くのだ。徐々に広がってきたパニエの、その軋みよりも、衣擦れの音がより官能的だと。

私は眠れぬ夜に、美しい女を磨き上げる自分を夢想した。月明かりの下で、クリームでしっとりした掌をにぎりながら。

宮廷へ伺候する。仕立て屋の目標はそこにあった。ブルジョワの服をどれほどつくっても、最後の権威はまだ宮廷にあった。宮廷の人達に服をつくる。それができる仕立て屋とそうでないものとの間には厳然とした壁があった。そして作る相手は身分が高ければ高いほどいい。高い身分の女性が身につけ、それが評判になれば仕立て屋の地位も上がる。王が統治し平穏になった世の中で、女達は美しくなることに血道をあげている。女の懐に張り込んだ仕立て屋は、女同士の美の秘密を共有して親密な間柄になった。そして高貴な人達になくてはならない、かけがえない宝になる。

だがバルソン夫人は限られた趣味の合う人々にのみ服をつくっていた。夫人は他からぬきんでて頭角を現すことより、控えめで落ち着いた人生を歩むことを目的としていた。勿論夫人とて、ここにくるまでは綺麗ごとばかりではなかっただろう。だが薄く粉をはたいただけのように見える美しい肌と控えめな化粧は、客達を安心させる。時代遅れのドレスは真っ平だが、流行の先端を追うことに疲れる女性は多いのだ。だから夫人の客は奇をてらった流行より、少しだけ大人しくそのぶん趣味のいい貴婦人が多かった。

私はお針子の中でも抜きん出た技量とセンスを持つとして厚遇されていった。そして、次第にこの店が物足らなくなっていた。もっと素晴らしいドレスを作りたい。目の覚めるような真紅の生地を使っても、私なら気品を失わないデザインが出来る。そう思っていた。独立したい、夫人のような控えめなローブではなく、美しい女性をより一層美しく、誰もが息をのみ道を譲らせるような、そんな服を作りたい。そして名声を伴って宮廷に伺候する。私ならきっとできるはずだ。

私の中の野心はきっと、初めて出会った貴婦人の侮蔑の目線を跳ね返すための物だった。美しいローブを作ることで、私はあの女に復讐できる、そう思っていた。そしてその機会は思いがけず訪れた。

以前からバルソン夫人が懇意にしている顧客があった。柔和な目の伯爵夫人。バルソン夫人の作るローブは伯爵夫人にとても合っていた。抑えた色調、柔らかな曲線。八重の桔梗のような横顔に、深い紫色が良く映えた。私はその伯爵夫人がが好きだった。私のようなお針子にも目を止め、優しく声をかけてくれる。

ある日、伯爵夫人は侍女一人を連れて店を訪れた。いつもなら私や他のお針子を伴ってバルソン夫人が出向くものだ。何か事情があるのだろうか。そう内心考えながら、私は筆頭のお針子としてその席にいた。伯爵夫人は少し逡巡したのち、語りだした。
――娘のローブを作ってほしい。できれば明日、明後日にでも。

バルソン夫人は顔色一つ変えなかった。しかし内心はとても驚いていただろう。伯爵夫人がこのような無理を言い出すことはついぞ無かったし、その娘――はこれまでローブを作ったことがないという。私は無意識に息をのんだ。バルソン夫人が一瞬私を咎めるように見たが、すぐ伯爵夫人に向き直った。

伯爵令嬢がローブを作ったことがない?そんなことがありえるのだろうか。が、すぐに私は思い出した。伯爵夫人の末娘は、女ながらに軍人で近衛連隊長であることを。私は見ていないが、他のお針子が伯爵夫人を送ってきた連隊長を見かけたことがあるらしい。それから暫く、店ではその男装の軍人の話でもちきりだった。バルソン夫人が見かねて注意したほどだ。

――今までも末娘のためにローブを誂えたことはあるが、娘が手を通すことは無かった。だが今回その娘自身がローブを着る。だから無理を言うが、どうしても一両日中に作ってほしい。

何故、今。何故そんなに急いで。私の疑問は晴れなかったが、もとよりバルソン夫人も口を出さない。日頃穏やかな伯爵夫人の、思いつめたような言葉に否と言えるはずもない。夫人は立ち上がり、私に向かって、店にあるだけの白い絹地を持ってくるように言った。私は言われた通り、絹地を、最上級の白だけを、運んできた。

白は誤魔化しがきかない。絹の質と染めと織だけが全てだ。安物の白などこの店にはないが、中でも私が誰かに作るとしたらこれしかない、という生地だけを選んだ。バルソン夫人は選びぬかれた絹をみて、私の手を取り言った。近衛連隊長のローブは私に任せると。

今度は本当に声が出てしまった。そして身体中に震えが来た。作れる?私が?私の手で、伯爵令嬢のローブを?ええ、私の全てを捧げて、素晴らしいローブをお作りします。人々が感嘆の声を漏らしひれ伏すような。私の夢が叶うならば、この二日間で命を落としても構わない―――。

そして私はそのまま、伯爵夫人の馬車に乗ってヴェルサイユへと向かった。貴族の馬車に乗るという僥倖にも上の空で、私はただ行く先にいるであろう夢の具現に心奪われていた。この馬車の止まる処に私の求めていたものがある。ただそれだけを考えていた。

永遠とも思えるほど長い時間をかけて、実際には数十分だったが、馬車はヴェルサイユの館に着いた。従僕に案内され通された客間は、件の連隊長の部屋らしかった。此処で待つようにと言われ、私は立ち尽くして待った。まだ来ない・・まだ。

私は不安になった。バルソン夫人でなくて良かったのだろうか。末の伯爵令嬢の気が変わったのだろうか。もしそうなら、私には二度とチャンスがない。あの店の片隅で一生を終えるのだ。高揚が激しく高かった分だけ、不安は募った。早く来て、早く・・もう立っていられない。其処へノックの音がした。私は振り返った。

 

私の人生――陽の当たらない汚れた川で俯いていた。絹の洪水の中にいても満たされなかった。此処じゃない、此処にいるはずじゃない、違う、違う違う、私はもっと、美しいものを求めている。天上の神ほどにも輝くものを・・それに触れられるなら――

 

私は膝を折った、深々と首を垂れた。挨拶する自分の声も震えている。連隊長は白い-その手はとても銃を掲げるものには思えなかった-手を差し伸ばして、貴婦人にするかのように私をいざなった。声は遠くから聞こえる大聖堂の鐘のようだ。
――どのようなローブでも構わない。貴方の思うように作ってくれればいい。ただ・・美しくあれば。一度だけしか着ることはないだろうから。

私はその言葉を聞いてようやく、近衛連隊長であり、伯爵でもある女性の顔を正面から見た。一両日で作ってほしいローブ、それは一度しか手を通さない。おそらくは生涯で一度だけ。

何故だかその時、泣きたくなった。これほどに、神と見まがうほどに美しい女性のローブを私が作っていいのだろうか。泣いて伏し、謝りたくなった、私の野心は貴方の美しさにふさわしくない。そう言おうとした時、白い手が私の肩におかれた。
――貴方を信頼している。同じ女性として。ローブを作ってほしい。

私は胸に深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。もう涙など流さない。この人のローブを作り終えるまでは。
立ち上がって採寸する間に、私にはもうローブの形が見えていた。細いが力強い肩の線、張りのある背中から腰の曲線、殆ど結うことのなかった金髪をあげると、思いのほか嫋やかなうなじがあった。

私はこの時ほどバルソン夫人に感謝したことはない。夫人は服飾の歴史を知ることもお針子の義務の内だと、貴重な写本を惜しげもなく見せてくれた。ギリシャ、ローマの神々の流れるような衣。夢中になって見たあの神々の姿を映したい。人が人であり、神が神であった古代の・・。

ローブは三日後の夜会に間に合わせてほしいと言われた。私は身体に力が満ちるのを感じた。見立てた絹の中から、一番顔色が映える生地を選んだ。細かく更紗模様が織り込まれた布。青みがかった滑らかな膚が、月光を纏ったように見えるはずだ。夜会の蝋燭の灯りの下、鏡や大理石の反射、それに顔を覆う豪奢な金髪が、膚と絹をいっそう輝かせるだろう。そして胸元には青だ。この人の瞳と同じ・・いやもっと深い青がいい。襞は?ローブ・フランセーズのダーツではなく、上背のあるシルエットに合うのは。そうだ、腰から降ろそう。歩く後ろから襞が揺れて、月の女神が光を振りまいたように見えるだろう。肩は少し広く、袖は肘に沿って細くしなやかに。手には・・扇がいる。少し古風な羽飾りのついた。だから前のシルエットはなだらかに、足元まで落ちるものでなければならない。扇の羽だけが、この人の物言わぬ感情を表せるように。

言葉ではなく、絹地がこの人を具現化するのだ。衣擦れのさらさらした微かな音だけが・・言わない言葉を語る。

この夜が終わらなければいいのに。私はこの人の足元でいつまでも針を進めているだろう。ひと針ごとに、俯いて青い瞳に影を差す瞼を形作っていける。

しかし時間はなかった。私は飛ぶように店まで戻り、絹を広げて切り裂いた。早く、しかし襞のひとつでも未完成ではいけない。ダーツの位置は?布の重さで思うような膨らみが出るだろうか?オダリスク風の刺繍レースは胸元だけでなく、裾にも入れて影をつけよう。時間は嘘のように早く過ぎる。もう夜明けだ。今日中に仮縫いを済ませなければ、夜会に間に合わない。時計よ、止まって・・。

仮縫いのため館に向かうとその人は待っていてくれた。私は絹地を当てながら、細かいところを直していく。しかしひとつ問題があった、コルセットだ。その人はこれほど締めなくてはならないのかと当惑したようだ。私は小さく笑ってしまった。その人もつられて微笑む。私は身体が熱くなった。美しい人が笑うと周囲の温度まで上がるのだ。私は頭を振って集中した。ドレープを、襞を、レースを、私の中にある美しさを形にしなければ。

跪いてピンを差しながら、ふと顔をあげるとその人は放心したように鏡を見ていた。壁に掛けられた大きな姿見。髪は仕立ての邪魔にならないよう、軽く結い上げてある。其処からなだらかな肩の線が続く、一度も陽に晒したことのない胸元はあてた絹地よりきめ細やかだ。私はその人の表情を窺った。自分の姿に戸惑っている?いや違う。紅い珊瑚のような唇が開き、声に出さず何かを呟いた。何と言ったのだろう・・。

また夜になり、私は一睡もせず店で針を動かしていた。一時でも手を止めれば間に合わないかもしれない、その恐れもあったが。私は早くこの衝動を形にしたかった。これは私の最初の・・もしかしたら最後の作品になるかもしれない。あの人のような美しさにこの先会えるとは思えなかった。心臓から溢れ出る強さ、背中が語る嫋やかさ。そしてあの、表情。私は知らず手を止め考え込んだ。

生涯に一度だけ纏うドレス。何の・・誰のために。恋する人だろうか・・おそらくは。声に出すことのできない恋。あの強く美しい人が秘めなければならないほどの。私はそのような恋をしたことはない。誰かを焦がれるほど想ったことはない。だがその感情は判る気がした。あの人に触れるたび、形にならない想いが指先から流れ込んでくる。だから私があの人に代わって想いを具象化する。沈黙の恋を形に―――。

朝が来たことも気づかなかった。他のお針子が遠巻きに覗き込み、バルソン夫人が不安げに声をかけても返事をしなかった。速やかにだが慎重に、針を進める。白い絹に血の一滴でもつけてはいけない、糸が引き攣れてもいけない、全ては流れのごとく、ただ一度だけ愛しい人の目に留まり、その他は全部消えてしまうように。

絹地は縫っても縫っても終わらない気がした。ドレープを減らす?いや駄目だ。曲線のひとつでも動かせない。少し紫がかった青のレースを裾に留めていく、後ろの結びが緩やかに流れるように折り返しに重みをつける。踊る時、身体から半周遅れて揺れるだろう。背中は肩甲骨から腰までの曲線を際立たせるように、真っ直ぐに・・。

夜半近かった。ようやく殆どが形になった。私は伯爵夫人から預かったブローチを取り出した。深く赤い、鳩の血の色。白と銀と青で彩られたローブの胸にそれを縫い付ける。あの人の心臓の色だ。恋する女性の形代。踊る相手の眼が、そこに吸い寄せられるように。

明け方まで少し眠ろうか。もう身体は疲れきっている。青い顔で届けるわけにはいかない。しかし眠ることなどできそうに無かった。人生をかけた、このローブから眼を離せない。あの人がこれを纏えば、そうすれば、私は何を糧に生きていくのだろう。

知らぬ間に夜が明けていて、床で倒れるように眠っていた私をバルソン夫人が起こしに来た。見事だわ、そうねぎらってくれた。私は改めてローブを見つめた。朝の光の中で発光している。私の全て・・その時私は生まれて初めて、何かを愛することを知った。

館に向かうと、始まりの日に案内してくれた従僕が迎えた。背の高いその男が、どこか不安気であることにふと気づいた。その表情は見たことがある。考え込んでいるうちに部屋の中に通された。

待っている間に、何気なく窓に近づき外を眺めた。窓の下に白い薔薇が一面に咲いていた。香りが立ち上ってくる。私は息を吸い込んだ、身体中の血が入れ替わったような心地がした。
世界は美しい・・これまでも、きっとこれからも。そしてその人が部屋に入ってきた。

夜会のために着付けるときに、貴方にいてほしい。それまでは休んでいてください。そう請われた時、私は断るべきだっただろう。しかし私は殆ど無作法と言えるほどにすぐウィと答えた。それは私の今の、心からの願いだったから。私の気持ちを汲んでくれたのだろうその人の微笑みに、私は伯爵夫人と同じ心遣いを感じた。似ていないように思えたが、やはり母娘なのだ。

通された客間で私は目を閉じて、椅子に凭れ掛かっていた。微かにクラブサンの音が聞こえてくる。あの人が弾いているのだろうか。薔薇の香りと音色に身をゆだねていると、かの従僕が茶を運んできてくれた。
――こんな風にしか言えないが、あのローブは素晴らしかった。きっと――様にも似合うだろう。
そう話しかけられて、私は彼の表情の意味が分かった。恋する者の瞳。あの人は秘めねばならない誰かを想い、彼はあの人を想っている。交わることのないフーガ。彼はあの人がローブを着た姿をどのような想いで見つめるのか。

やがて、その時が来た。私は部屋に呼ばれ、年嵩の侍女と共にその人のコルセットを締めた。髪は高く結い上げられ、生来の膚の美しさをさらに引き立てた化粧が施されている。私はピンを取り出した。ローブは私の手から離れ、本来の持ち主へと還っていく。その人は少し青褪めていた。コルセットが苦しいのではない、これから馬車で行くその先で待ち受けているものに立ち向かうためだ。私は黙ったままピンを差していく。腰から裾へ流れるドレープが完璧なバランスになるよう整える。後ろで大きく結んだ布が、歩くたび揺れるように、重さを調節する。

出来上がりました。
そう伝えた私の声は震えていただろうか。

 

 

鏡の中に女神がいた。遠く南の異国を思わせる意匠。古風な羽の付いた扇。それを持つ白い手が微かに震えている。
その人は沈黙したままだった。鏡の中の女性を、不思議そうに見つめていた。そして一歩一歩、ゆっくり鏡へ近づいた。手を伸ばして、冷たいガラスの表面に触れる。鏡像の女性も同じように手を上げた。瞳を伏せて、深い深い息をついた。

―――ありがとう。

振り返って微笑んだその顔に、喜びと・・一抹の哀しみがあった。

 

 

馬車が遠ざかっていく。私とかの従僕が二人、隣り合って見送っている。私はこれまでの人生が飛び立っていくのを、彼は想いが行き場を失い空に漂うのを、見送っていた。夕暮れの朱は色を無くし、夜の女王が舞い降りる。今夜はただ、心穏やかに眠ろう。明日からは違う私になるのだ。

私は彼に暇を告げた。今宵、あの人の想いがどうなっても、彼の愛は変わらないのだろう。再び相まみえることのない彼に、私は改めて、かの人の名前を尋ねた。

 

オスカル・フランソワ・・オスカル―――神から授けられた名前。

 

END