踏み潰せ

ああ退屈だ

退屈がこんなに恐ろしいものだとは思わなかった。まるで身体の中から喰われていくよう・・骨が砕かれる音がする。

今までずっと、何かを手に掴むために必死だった。母と妹を置いて家を飛び出してから、あたしは今の自分になるためにどれほどの思いをしてきたことか。人のいい公爵夫人を騙し、大司教とは名ばかりの馬鹿な男を手玉に取った。そして今、あたしの足元に金が散らばっている。元はダイヤだった。比類ないといわれた首飾りは金貨になり、机からあふれて床に落ちている。

あたしは長椅子に身を投げ出し、ニコラスが仕立て屋から届いたばかりの服や宝石を散りばめた剣を身につけ、鏡の前に得意げに立っているさまを見つめている。彼は有頂天だ。首に窮屈そうに巻かれたレースのクラヴァットだけでも、ひと財産分だ。剣は血の色のルビーが嵌め込まれ、柄には舞い上がる鷹が彫られている。数ヶ月前の借金だらけのあたし達には、夢でも手が届かなかったものばかり。あたし達をずっと見下してきた奴等の裏をかき、大金を手にすることに成功したのだから。今の彼の顔には何の憂いもない、あたしが抱えている焦燥の影すらない。

本当はそんなに金を使うべきではないのだ。人が不審がることは避けなければならない。まだことは露見していないが、先を考えれば用心に越したことはない・・・だけど。
今はもう、どうでもよかった。浴びるほどの金があるのに、あたしを蔑んでいた連中を出し抜いてやったのに、焦燥に押し潰されそうだ。金を手に入れることは何の意味もなかったのだ。

あたしははじめて、軽蔑していた連中がいつも満たされない顔をしていた理由を理解した。あいつらも多分同じように退屈している。夜毎変わる情事の相手、一度着ただけで流行おくれになる服、人よりも素晴らしい宝飾品・・欲望と金は底のない桶に注ぎ込まれて消えていくだけなのだ。いくら白粉を塗っても、歳とともに崩れていく顔まで隠せない。その恐怖から目を逸らす為に、かりそめの恋人や宝石を求める。あたしはそんな女になりたかったんだろうか。
床を埋めるほどの金も宝石も、あたしが求めていたものじゃない。では何?あたしが欲しいもの、欲しかったはずのものは。

かたわれは手に入れた。馬鹿な男だけれど愛おしい。手放すくらいなら殺すだろう。だけどもっと・・・足りない、何かが。
机の上のグラスに手を伸ばした。金貨が乾いた音を立てて落ちた。金の色よりブランデーの琥珀の方が奇麗だ。グラスの中身を一気にあおると、零れて胸の間に溜まる。
「・・・死にそうだわ」
呟いたあたしを、彼が怪訝そうに振り返る。その時だった。

大勢の靴音、打ち壊される扉。そして警官が入ってきた。あたし達を捕まえるために。ニコラスが毒づきながら剣を抜いた。多勢に無勢で、銃まで持った警官達にそんなものは役に立たないが。彼は喚きちらし、興奮して息が苦しいのか、忌々しそうにクラヴァットのレースを引き破いている。やみくもに剣を振り回すと、宝石がひとつ外れて落ちた。それを警官達が踏み潰すのを見て、あたしは笑い出した。さっきまでの憂鬱は消し飛んでしまっていた。
ニコラスはあたしを背にかばいながら、窓の傍ににじり寄った。窓の下にも警官がいるのが見える。男達が徐々に迫ってくる。ニコラスの剣が警官の肩を掠めた。誰かが発砲した。
血の滲む肩を押さえたまま、床に組み伏せられたあたしはまだ笑っている。もう焦燥は無い。あたしが望んでいたのは---戦うことなのだ。

「当分・・退屈しないですみそうね」

END