雪の上の赤い花

眼覚めると、音が全て消えていたので、雪が積もったのだとわかった。窓の木枠すら凍っていた。氷の割れる渇いた音を立てて窓が開くと、明けたばかりの外にはほの暗さが残っていた。
「行こう」
僕達は森へ向かって駆け出した。走る僕らの後ろには、足跡だけが残っていた。息が白く、耳が痛い。外套を着込んだ身体の中は熱く、前を走る金髪に追いつこうと、僕は雪を蹴った。

森に着くと、息を切らしながら二人とも立ち止まり、目的の場所まで今度はゆっくり歩いた。この先に目当ての木がある。クリスマスに広間を飾るための最高の木を、僕達は見つけていた。始めて雪が積もったら、真っ白に彩られた木を見に行こうと約束していた。ジャルジェ家に引き取られてから毎年、樅の木を選ぶのは僕らだった。森の兎が通る道も、崖下の小さな洞穴も、枝を強く左右に張り天突くように伸びやかな樅も、僕達は知っていた。
そして僕達は木の手前に立っている。近寄ろうとしたとき、風が吹いて葉先が揺れ雪が落ちた。その下に黒い人影があった。

周りに足跡は無い。その人は雪の降る前から木の下にいたのだろう。白い雪の上に、点々と鮮やかに、赤い血が散っていた。

「・・・怪我をしているんだ」
「動かないよ・・」
僕達も動けなかった。熱かった身体の芯がすっと冷たくなり、心臓が大きく跳ねた。
「助けなきゃ」
「うん」
僕達はそろりと、足を前へ出した。一歩一歩、雪を踏む音を聞きながらゆっくり進む。
彼は半ば雪に埋もれていた。俯いたまま全く動かない。
「あの・・・」
僕は手を固く握り締めたまま声をかけた。オスカルが彼に手を伸ばそうとした時、突然また雪が落ちてきた。驚いて見上げると、木の上を、大きな羽音を立てて、梟が飛んでいく。そして小さなうめき声が聞こえた。深い眼窩の奥から、真っ黒な瞳が僕らを見上げていた。
「君達・・は?」

「大丈夫ですか?どうしてこんなところにいるんです?怪我は」
彼が目覚めたことで、僕達の呪縛もようやく解けた。でも唇は真っ青で、僕が肩をつかんでもまた眼を閉じてしまう。
「オスカル、誰か呼んできて。ここにいたら、本当に」
「やめろ!」
彼が弾かれたように顔を上げ、凍った手が僕の腕を強い力で掴んでいる。動いたせいなのか、肩から血が流れ出した。
「アンドレ!」
「呼ばなくていい誰も・・・ほっておいてくれ。あっちへ行け!」
ずるりと力が抜けて、彼は雪の上に倒れた。赤く染まった地上に、また白いものが落ちてくる。

僕達は暫く黙って立ち尽くしていた。やがてオスカルがサッシュを解いて彼の腕に巻いた。僕は外套を脱いで彼に着せ掛けた。彼は横たわったまま、再び眼を開けた。
「もう・・・帰りなさい。私のことは忘れるんだ・・・・打ち捨てられるのが相応しい人間なのだから」
眼の光も声も弱々しい。だが先程とは違い言葉は穏やかだった。
「でも・・・このままいたら・・」
オスカルは次の言葉が出せなかった。僕も同じだった。

「・・・・人を殺した」
意味が分るのに時間がかかった。僕らは顔を見合わせ、少し後ずさった。
「追っ手に撃たれた。もういいんだ・・報いだから。このまま眠れば彼女の元へいける・・いや」

「彼女はあそこにいるんだ、私とは・・行く場所が違う」
彼は仰向けになって空を見上げ、降る雪に埋もれていく。
「私は地の底だ・・永久に彼女と分かたれると知っていて・・・この手で・・・・」
彼は痛むはずの腕を上に向かって精一杯伸ばした。声は小さくなっていく。
「どうして・・・?」
オスカルの問いにも振り向かないまま、彼は掌に落ちる雪を見つめていた。
「どうして?」
僕も聞いた。答えを聞きたかった。
「分からない・・・愛でも憎しみでもなく他の・・でも・・・間違いだった」
彼は眼を見開き、何かを掴むように両手を天へ突き出した。
「間違えた・・私は間違った。大きな間違いを!マリア・・マリー・・・許してくれ、許して・・」
声が途切れた---腕が雪の上に落ちた。

風がどうっと吹 いて、地表の雪も舞い上がり、彼の姿を一瞬見えなくする。彼の腕と同じように僕達も動けなかった。小さな霧のような雪は、いつの間にかあたりを染めるほどに降りしきり、僕はオスカルが震えていることに気づいて、ようやく声が出た。
「大人を呼んできて、オスカル。僕はここにいるから」
「駄目だよ。一緒に行くんだ」
「でも、この人が」
「ここにいちゃいけない!雪がひどくなってる。お前まで・・・・埋もれてしまう」
懸命に腕を引くオスカルの顔は青ざめて、今にも泣き出しそうだった。僕はもう一度横たわった人を振り返ると、二人で渦舞う雪の中を駆け出した。

僕らが人を呼んで戻ってきたとき、彼は雪の下に眠っていた。花のように転々と散っていた血の痕は、見えなくなっていた。

その後暫く、僕達はいつもより言葉少なに過ごした。大人たちは何事かを噂していたが、僕は耳をふさいでいた。
クリスマスがやってきて、オスカルは11歳になり、別の樅の木の下で祝福された。真夜中、僕は寝付かれずに明かりの消えた廊下をそっと歩いて、木の前にたった。冷たい夜気にあの日のことを思い出していた。かすかな物音に振り返ると、闇に金髪が浮かび上がっていて。僕達は二人並んで、飾りの雪をつけた樅を見上げていた。

「あの人は・・・」
「うん?」
「あの人は、何を間違えたのかな」
オスカルは木の根元を見つめてつぶやいた。無論そこには雪など積もっていない。
「・・・大好きな人を、死なせてしまった事だよ」
「どうして?」
「どうしてだろう・・・」

好きな人が死んでしまうのは、とても---とても辛いことだ。身体がばらばらになるくらい、もう二度と笑うことなんてできないと思えるくらいに。あの人は多分それが判らなかった。間違ったと気づいた時にはもう、遅かったんだ。僕は俯いたままのオスカルの手をそっと握った。冷たくなっていたお互いの手はだんだん暖かくなってくる。

---僕は間違えない 好きな人を傷つけたりしない 何があっても・・絶対に間違えたりしない!

外はまた雪が降り出していた。雪の上に散った血を思いながら、それだけを心に誓った冬。
僕達が、樅の木を探したのはその年で最後になった。12歳の僕は、すぐそこに新しい扉が待っているのも気づかなかった。彼の面影は長く記憶の底に閉じ込められ、思い出すことは無かったが。彼の言葉の意味を知るのは、もっとずっと後のことだ。

何も知らなかった、降り積もったばかりの雪のような子どもの時間が終わろうとしていた最後のクリスマス。白い雪に咲いた赤い花が、ひとつの扉を閉める音になった冬のことだった。

END