クロエ

雨が降る前は匂いでわかる。

土の匂いがいつもより強くなる。次は木だ。葉の裏から染みだす香りは、ねっとりとしていて身体に纏わりつく。
――ああ、雨が降るな
そう思う間もなく、ひそやかな水の音が窓をたたき始める。
――このぶんでは、雨足が強くなるだろう。オスカルが濡れなければいいが。
埒のあかない会議に出るために、オスカルは別棟に行っていた。この司令官室のある棟まで、歩いても数分の距離なのだが。案の定、雨は瞬く間に強くなっていく。迎えに行くべきかアンドレが逡巡していると、軽い足音が廊下に響いて、彼女が帰ってきた。
「あと少しというところで、濡れてしまったよ」
彼は声のする方に進んで、ハンカチを差し出した。
「ありがとう」
オスカルは微笑んで彼を見上げている。だが、彼にその表情は見えなかった。

オスカルが雫をふくために髪を束ねると、あたりに雨とは違う香りが広がった。淡い花の香は彼女自身と混ざりあって、雨の底に沈む。いつもなじんだ香りの中に、今日はかすかに違うものが混じっていた。
「オスカル、怪我でもしたか」
「・・何故?」
「血、なのかな。錆びみたいな匂いがする」
「お前は、匂いで物を見るのか」
からかい気味に笑う声に手を伸ばし、頬に触れる。
「大丈夫か、どこも」
「・・・・・・・怪我なんてしてない。ああ、さっき兵舎に入るとき、雨樋の水で濡れたんだ。樋が錆びているから、きっと」
「そうだな」
「怪我なんて・・見ればわかるだろう。血なんか出ていない」
「ああ」
頬にあてられた掌から熱が伝わってくる。
「雨が・・・強くなった・・・」
呟いた言葉は彼の耳に届いたのか。オスカルは彼の腕に抱き取られていたので、声はくぐもるばかりだった。雨音はなおいっそう強くなっていく。

 

雨は数日降りつづけた。パリの空も曇天に覆われて、時折やんでは思い出したように降る雨に人々は空を見上げて溜息をついた。
「ヴェルサイユまで戻るのは無理そうだ」
「そうだな、急なことだがパリの屋敷で少し休んだ方が良いだろう」
強くなる雨足に、二人とも馬を止めていた。春とはいえ、日の暮れてからの長雨は身体を冷やす。踵を返して、さほど遠くない街区にある屋敷へと向った。勤務が過酷になるにつれ、兵舎に泊り込むか、今日のようにパリの屋敷に向かうことも多くなった。

小さな屋敷には、長く勤め要領を得た数人の使用人がいるだけだった。湿気の染み込んだ服を着替え、燃えさかる暖炉の前に座るとようやく息がつける。そこへ扉を叩く音がした。待ち焦がれた人影が部屋に入ってくる。

暖炉の火と、僅かな蝋燭の灯りに照らしだされた彼を、オスカルは瞬きもせず見つめていた。どこからか吹きつけるかすかな風に、部屋の灯りが揺らぐ。彼が部屋に入り、温めてハーブを入れたワインのグラスを卓に置き、彼女に振り向くまで。もう何年も何十年も、この姿を見てきたはずなのに、紅い揺れる灯火の下の彼は、まるで始めて会う人のようだった。

咽の奥がつまり、眼に熱いものがこみ上げてくる。好きとでも、愛しているとでも、言えるのかもしれない。しかし今胸を掴んでいるものはもっと別の感情だった。
―――彼を失ったらきっと生きていけない
オスカルは目を伏せ、迸る感情を抑えようとした。涙をこぼせば彼は不審がり心配するだろう。彼はいつも、彼女から目を離さず見守っている。それでいて必要な時は距離をおく術も知っているのだ。
いつからそうだったのか。彼に会う前の自分は卵の中だった。硬い殻を割って外に出ると、全く違う世界に出会った。それまで周りには、歳のはなれた姉達と、両親や教師。皆大きく見上げる人たちばかりだった。

彼が来てから、自分を取り巻く生活の色が変わった。太陽と馬の栗毛と葉の緑になった。子ども同士草の上で転んだ夏。その日々が終わると、自分と彼も大人の中に入っていった。そしてずっと、彼と彼の優しい眼が傍に、あまりに静かに当然のものとしてあったので、長い間気づかなかった・・その価値に。

彼が、暖炉の前の黒い毛皮の前で座り込んでいるオスカルの前まで来て、顔を覗きこんだ。
「どうした?寒いのか。もっと火を」
触れあっている頬と細い肩が震えている。彼は雨に濡れた体がまだ暖まらないのかと思っていた。
「寒い・・でも火はもういいんだ。暖まりたいのは・・」
アンドレの腕が背中に回され、力が込められる。背には暖炉の熱、胸には人の熱。唇が合わさったことが合図のように、二人の身体が床に崩れ落ちた。
―――彼がいないと生きられない。では彼は?私がいなくなったら・・私を失ったら・・どうするのだろう。
暖炉の火に照らされた裸の胸に、彼が顔を埋めている。癖のある黒髪に指を絡ませながら、自分の胸の奥に巣食う血の塊が、いつ咽を破るのか、オスカルはその日をただ彼のために恐れていた。

どれほどの時間が経ったのか、夜半目を覚ますとまだ雨と風の音がする。ふと背中に冷たい空気があたる。彼がそっと半身を起こす気配がした。外の嵐で暗いが、もう夜明けが近いのだろう。彼はいつも、傍らで眠る恋人を起こさないよう、静かに起き上がる。シーツに散らばった金髪を撫でつけ、白く浮き上がる肩に口づけてから、寝台を降りる。いつもそうだった。だが今夜は。

彼は半身起き上がったまま、身じろぎもせず声も立てず、凍り固まったかのように動かなかった。そして両手で顔を覆い、嗚咽とも溜息ともつかない深い息をついた。
オスカルは背中でそれを聞きながら、彼を苛んでいるものが何か想いをめぐらせていた。シーツの上で、お互いの心を探るように抱き合った今夜の行為が・・。
雨はいまだやまないようだった。

 

花が揺れている。白い花弁を風に揺らされて、今にも散り落ちそうだった。
「・・もう、花も終りだな」
薔薇の繁みに身を隠すように、小さな東屋の隅で寄り添って座っている。

季節の変わり目の長雨がようやく終り、夏の気配が満ちている庭先。ゆったりした時間を過ごすのは久しぶりだった。しかし今の穏やかな時が束の間だということは、お互い何も言わずとも分かっていた。青い下草は僅かに湿気を含んでいる。散り遅れた花の香りがもうかすかになっていて、陽射しに青々と伸びる草の香の方が強いほどだった。

「この品種は初夏までだから、殆んど散ってしまった。一番好きな薔薇なのだけど」
咲き誇る八重でなく原始の姿に近い、一重咲きの花。野茨のように、蔓ののびる先から、零れるように花の咲くのが好きだった。雨に打たれ風に揺られても、うな垂れることの無い花弁。蔓の萌える緑の中で、星を散らしたように花の咲く様は、惹きつけられてやまなかった。見上げれば、茨の緑の向こうの空が痛いほど眩しい。空の青が深みを増して、夏を告げていた。
眼をとじて、彼の肩にもたれかかる。伝わる体温と、陽射しと、大地の匂いに囲まれていると、本当に何もかもが消えていきそうな気がした。このままでいたい。今この場所の空気と風と花と空を閉じ込めて。過去も未来も消してしまいたい。

そう思い、深く息をついた途端に、喉に硬い異物感を覚えた。体が硬くなり、掌に汗が滲んでくる。
―――彼に悟られる
ここで、咳き込むわけにはいかない。爪が食い込むほど強く掌を握り締め、息を止めて嵐をやり過ごそうとした。
「・・オスカル?」
彼の不安げな声が聞こえても、眼を開けられなかった。頼むから今は過ぎ去ってくれと、それだけを願っていた。息を詰めていたのは多分ほんの数秒だったのだろうが、喉の奥を塞いだものはそこにとどまって、それ以上暴れようとはしなかった。

嵐が過ぎ去ったことに安堵し、力なく彼にもたれかかった。額に汗が浮かんでいたが、それすら気づかず黙っている彼女を、彼は抱き寄せてそっと背中を撫でている。そのまま二人とも何も言わず、風が葉を揺らす音だけを聞いていた。
どのくらいそうしていただろう。オスカルは頬に湿って暖かいものがあてられるのを感じた。唇が重なろうとした時、警告が鳴り響いた。手で胸を押えて離れようとしたが、強い腕が許さない。唇は薄く重ねられると、ほんの少し開いて息を吸い込んだだけで、すぐに離れた。

「・・・花が」
「何?」
風に耐えられなかったのか、爪ほどの小さな花びらが彼女の肩に落ちていた。
「・・明日には、もう全部散っているだろう」
オスカルは独り言のように呟くと、髪に絡んだ花弁を指に取る。
「また咲くよ。次の夏になれば」
「次の?」

オスカルは思わず顔を上げてしまい、まともに彼の隻眼とぶつかった。
―――次の
「オスカル・・・」
―――次の夏は

「オスカル!!」
彼が血を吐くように叫んで、折れるほど彼女を抱きしめた。見上げた空の青さが痛くて目が開けられない。息が詰まって、何も考えられない。
「オスカル・・・オスカル。このままどこかで・・静かな場所で。パリもヴェルサイユも、国が壊れていくことも、何も考えずに・・俺の腕の中だけにいてくれ」
――私は次の花は見られない。彼はそのことを知っている。いつから?
「お前を失うことなど・・耐えられない。考えただけで気がふれそうだ」

青い・・・・空がどこまでも青くて、陽の光が暖かい。彼の腕の熱が熱い。伝わる心臓の音。彼の息が頬にかかって湿っていく。これが全て失われるのだろうか。次の夏にはあとかたも無くなってしまうのか。
何故だか、来るべき死への恐ろしさはなくて、このまま空の青さに溶けていくような、そんな不思議な感覚に支配されていた。ただ、彼を残していくことが辛かった。命を削るほど嘆くのだろうと思うと、それだけが苦しい。

腕を彼の背中にまわして力を込めた。彼に熱が伝わるように、鼓動を、覚えていてくれるように。
「アンドレ・・・」
言葉は振動となって彼の身体に入り、細胞に刻み込まれる。
「愛してる・・・それだけは、なにがあろうと、決して変わりは・・しないから」
刻み込んで――飲みこんで――覚えていて、私を。
彼の望みどおり、何処か陽に溢れた土地で、お互いだけを信じて穏やかに過ごす。その選択ができない自分はまた、彼の手を離すこともできない。
最後まで傍にいて、決してお前から離れないから・・お前の左にずっと、命のある限りはいるから。だから・・許してくれ。

 

胸の中にひっそり花が咲いている
緑の棘は肺を突き破って
やがて白い胸が紅い花で彩られるだろう
彼女は茨の蔓に絡まれて眠りにつく
胸は苗床 墓標は花
花は夏が来るたびに失われたものへの愛を歌い
咲き零れる

 

 

END