お前の傷

私たちの間に傷がなければ結びついていられただろうか

もしも、私の肩に彼の左目に傷がなく、二人の間に影すらなく、ただ光の中で微笑んでいるだけだったとしたら。お互いを傷つけた無数の痕が、いつまでも塞がることなく血が流れていなかったとしたら。私たちはこのように抱きあっていただろうか。

 

赤い軍服の上に更に血が流れると、それは濁った黒い色になると知った。彼女が左肩を押さえて倒れこみ、そこから掌が肩が染まっていったとき。周囲が暗闇になり、脳天が割れたように痛んだ。眼前の男は刺した、男が怯んだすきに彼女に駆け寄ろうとして、まだ別の男が立ちはだかった。降ろされる剣を受け、返す振りで男を切ろうとするが届かない。彼女が倒れ血を流しているのに。
あの時ほど誰かを殺したいと思ったことはない。目の前にいて邪魔をする人間は誰であれ、咽喉に噛みついてでも殺したいと思った。どけ!邪魔だ。彼女の血をお前たちの血で贖わせてやる。距離を詰めると男が後ずさる。その向こうに彼女が倒れている。俺は剣を振りかぶった、男の頭をめがけて叩き下ろす。と、誰かの大声と馬の足音。男たちは散っていった。彼女は肩を押さえて呻いていた、生きていた。生きて・・・。

その肩の傷を見ることは久しくなかった。白い肩に引き攣れる折れた三日月の痕。なだらかな筋肉の曲線とは混じりあわない、不協和音。それは俺の脆さの証明だ。後ろから抱きしめ、肩に口づけるたびにその傷が開く。もう二度と苦しみ血を流す彼女を見なくてすむように、俺は祈る。ただそれだけを、祈っている。

 

私の瞼の裏で血の流れる音がする。左目を閉じ、手で塞ぎ、欠けた視界の隅が奇妙に歪むのを知った。それは彼の見ている世界。あの時、ほんの一瞬のように思えた。鞭のしなる音、振り下ろされた皮が放つ鈍い音、悲鳴。それは私の声だった、彼の声ではなかった。指の間から血が流れていたのに、彼はそれ以上呻きもしなかった。ただ手を、拳を痛いほどに握りしめているのが判った。夜の闇の中に更に黒く、血が大地に吸い込まれていく。黒い髪の間に巻かれた白い包帯。それが床に投げ出されていた、薄っすらと血の跡がついていた。それが私の眼なら良かったのに。お前の眼でなくて良かったと、そんな言葉は・・。

私は彼の柔らかな前髪をかき上げる。眉の上から頬にかけて、白い弓の痕が。視界と同じく欠けて折れ、切り取られた傷。私は彼を抱き寄せる。頬を包んで、瞼の上にキスをする。彼がくすぐったそうに微笑む。その笑みですら、ひどく脆い薄氷の上にあることを私は知っている。私たちは初冬の湖の氷の上に、燃えさかり今にも噴出しようとする火口の上に立っている。だから私は祈る、彼の傷を私に移し、彼の苦しみを私の傷で償えるよう、それだけを祈る。

 

俺たちは傷を負っている。決して癒えず、塞がることなく、日々新しい傷を身体中に受けている。生まれてから今まで、数えきれないほどお互いを傷つけた。その痛みに馴染んでいる、望んでさえいる。愛していると、耳元でささやく声さえ小さな傷を残す。小さく砕けたガラス片が血の中に混じっていることを、その血の流れる身体ごと愛していることを。

 

私たちの傷は愛。流れる血すら飲み干す。お互いの指先で傷つけ癒しまた、痕を残す。どうかこのまま、ほんの僅かな傷もそのままに。私たちはそれだけをーー祈る。

 

END