許されざる者

人の生は 葉に零れる露の如く儚い 知っている 知っているけれど

 

長い旅に疲れ果て、亡霊のようになって帰国した兄を、私たちは温かく迎えた。兄が、無事に帰ってきた。

父の制止も母の懇願も振り切って、かの国へ行ってしまってから、私たちは希望と諦めの両極を揺れ動いていた。父の力を持ってしても、日々混乱を増すフランスの情勢は正しく伝わってこなかった。漏れ入る情報は、絶望的なものになっていく。亡命計画の失敗、王権剥奪、王の処刑、そして・・あの方の、兄にとってかけがえの無い、命を賭して愛したあの方の、死。
父も母も弟も兄の知己達も、ほぼ諦めていた。兄が生きて再び故国の土を踏むことはあるまいと。ただ私だけが、兄が必ず生きていることを信じていた。兄は生きている、あの方を失ったとしても、いや失ったからこそ故郷に戻ってくるはずだと。そうしたある日、なんのも前触れも無く、兄が扉の前に立っていたのだ。私は階段を駆け下り、膝が崩れそうになる兄を抱きとめた。

数日が経ち、目覚めないと思われた兄が目を開けた。数週間、数ヶ月、兄は陽光の庭先をゆっくり歩いていた。一年、二年、軍に復帰した兄は階段を上がっていく。父が持っていた権威権力すべてを受け継ぎ、それを凌ぐほどの強力な力を手にしていった。そのころには母も弟も、兄の古い友人達ですら、兄に近づくことはしなかった。冷徹に権力を手にしていく兄に背を向け、父母は領地の古い館に篭ったまま沈黙した。薔薇の香が立ち上る六月の庭先で、私は兄がいるはずの居室の窓を見上げた。

あれは去年の夏だったか、庭の薔薇を摘み兄の部屋へ運ぼうとした。偶さかにしか屋敷にいない兄が、花を抱いた私に気づき足を止めた。夏の日の午後の廊下が、冬の闇夜になったようだった。私は窓から、花をすべて投げ捨てた。そのまま部屋に逃げ帰り、寝台に突っ伏して泣いた。兄は何も言わず、絶望の暗い瞳で薔薇を見ていただけだった。一言も私を責めなかった。そのことが私を苛んだ。

それからはもう私も、権力の重い鎧を着た兄に言葉をかけられなかった。人々は皆、兄が望んでその鎧を堅固にしていると信じていた。政敵、暴動を起こす民衆、全てに無慈悲で不断の圧迫を与え続ける兄。庭の一角の東屋で揺れる花弁をぼんやりと見ながら、幼かったころ私に薔薇の棘をとって渡してくれた兄はもう居ないのだと思った。兄はかの国で一度死んだのだ。兄が、薔薇を手に穏やかに微笑むことは二度とないと。

そうして月日がいたずらに過ぎ、その六月の半ばすぎ、兄が倒れたと知らされた。兄の枕元に駆けつけたのは私だけ。使用人だけが影のように通り過ぎる冷え切った屋敷。庭の薔薇は陽光の中に咲き誇っているというのに。
私は青ざめて横たわっている兄の傍に座ったまま、暗い部屋を見渡した。昔と変わっていない様に見える。どうして暗くなってしまったのだろう。そしてふと、以前は無かったものに気づいた。寝台の横の壁に大きな緞帳がかかっている。何だろうか、そう思い立ちあがろうとしたその時、兄が小さく呻いて目を開けた。侍女を呼び医師が駆けつけ、それきり私はそのことを忘れてしまった。

その夜、屋敷に泊まった私は眠れなかった。目覚めた兄は医師も私も遠ざけ、誰も自分の傍に近づかないようにと言って譲らず、昔から兄を知っている医師も肩を落として帰っていった。あの冷たい部屋で一人で、兄は何を想っているのだろう。今このとき、兄は一人なのだ。誰も手を差し伸べず、愛情も暖かさもすべて拒んで。

私はバルコニーへ出て、夜の庭を見下ろした。庭の花さえ凍っているように見えた。東棟にある兄の部屋の窓に小さな灯りが揺らいでいる。鳥すら眠る深夜に何をしているのだろう。私は音を立てないように外廊の階段を上った。重い幕が引かれた窓の隙間から、わずかに兄の姿が見える。燭台を手にして、寝台の横の壁を見ている。違う・・壁ではなく、絵だった。蘇芳色の緞帳が今は開かれ、大きな額の中に春が咲き誇っている。

一人の女性が、右手に一輪の薔薇を持ち、左手で小さな子どもの手を握っている。背景には花と光が溢れ、白い肌に上気した頬、うっすらと微笑んだ口元、春の青空を映した瞳。北の国のさらに冷たい部屋の一角だけが、暖かな春の庭先の熱を持っていた。その絵だけが永遠に、あの人の美しさと優しさを留めていた。

兄が灯りを卓の上に置き、そっと絵に手を伸ばす。だが、触れることはしなかった。触れれば、冷気が絵の花を枯らすかもしれないことに怯えているのだ。触れることもできず、厚い緞帳を下ろすこともできず、兄は膝をつき、床にうずくまり、肩を震わせて嗚咽していた。あの方の名を呼ぶ、兄の掠れた声・・・。

その声が聞こえなくなるまで、私は外廊で立ち尽くし、気づけば庭先に下りていた。首を垂れた花に触れると、露で掌が濡れる。私の手に仄かに花の香りが移り、翌朝になっても消えなかった。

陽が高くなるころ、私は一輪だけ花を摘み、兄の部屋へ訪れた。眠っていた兄は、気配にか花の香りにか気づき、うっすらと目を開けた。私は寝台の横に跪いた。
「お兄様・・」
兄は私ではなく花を見ていた。
「今日は・・何日だった」
久しぶりに近くで聞く兄の声は弱々しかった。目線はまだ宙に浮いたままだ。
「六月の、二十日です。もう庭は花の盛りですわ」
「・・そうか。また今年も・・」
私は待っていた。兄が私を見て、私に語りかけてくれることを。どこか遠い場所にいる誰かに対してではなく、いま此処にいる、生きた人間に気づいてくれるよう、祈るように待っていた。

長い沈黙を私は破れないでいた。兄はもう何も言わず再び目を閉じた。また行ってしまうのだ。夏の光も人の手の暖かさも此処にあるのに。すぐそばで、私は待っているのに。また心を閉ざし、遠くへ行ってしまう。二度と戻ってこない。

「---お兄様!」
私は叫んで立ち上がっていた。花がぽとりと寝台の上に落ちた。
兄は深い眠りから覚めたようにゆっくりと首を動かし、薄灰色の瞳で私を見た。この瞳の色は変わっていない。
「私がおります。貴方を愛し案じているものが此処にいるんです。それでも駄目なのですか。何の、慰めにも・・」
後は言葉にならない。もっと話したかった。話して兄の心が溶けるなら、一晩中でも幾日でも兄の傍にいるものを。でも私は無力だった。兄の深い悲しみの前に、何の力にもなれないのだ。
「ソフィア・・」
兄は半身を起こし、顔を覆ってしまった私の手をとった。
「すまない、お前の悲しみを思いやることができなかった」
優しい声、暖かな手。幼いときと同じように思えるのに。
「・・ちょうど、今日だった。六月の、蒸し暑くひどく喉が渇いたあの日。私は・・あの方を殺してしまった」
私たちの手が冷たくなった。お兄様があの方の死を招いたわけではない。そう言いたかったが言葉が出ない。
「あの時、手を離さなければ。計画が失敗しなければ。いや、国王一家が祖国を捨てる計画などしなければ。あの方が追い詰められることは無かった。私が、計画し実行し失敗した、その為にあの方は・・捕らえられ、愛するものと引き離され、断罪された。私が負うべき罪を、あの方は一身に受けて死んでいったんだ」
それはお兄様だけの罪ではないのに。お兄様一人で、大きなうねりを止められるはずも無かったのに。
「そのことを・・一瞬たりとも忘れたことは無い」

兄は花を手に取り、愛おしそうにそっと抱いた。そうしてようやく私を、懐かしい青灰の瞳でまっすぐに見てくれた。
「お前が私の苦しみを背負うことはしなくていい。これは私だけの罪なのだから。決して許されない苦しみは、私とあの方を繋ぐ最後の絆なのだ。だから・・」
「優しい妹よ、幸福になってほしい。お前に苦しみを移したくない」
それが最後だった。兄は手の中の花だけを見つめ、私の存在を、兄を救おうとする者を再び拒み、固く鍵をかけた。

許されざる者でいることが兄の愛だった。冷酷な兄の所業の為に苦しんだ人々の悲しみや憎しみを一身に引き受けること。最愛の人を人生から奪った力が、兄の上にも振り下ろされ、最期は人の形すら留めず死んでいくことだけを望んだ。
生き延びたことを呪い、裁かれる日を待ちわびていた、弱く愚かで愛しかった私の兄。

私はまだ兄の生を死を、理解することができない。これから先も受け入れられるのかわからない。兄を心から愛していたからこそ、理解することで終わらせることができないのだ。多分生涯の終わりまで…。

私は今年もまた爛漫と咲いた花を兄の墓に手向ける。花はやがて萎れ、風に飛ばされ、地に埋もれるだろう。
そしてまた次の花が咲き、夜露に濡れ香りを漂わせる。私の記憶も愛も身体も消えてしまっても花は咲く。

 

露の世は 露の世ながら さりながら

小林一茶

 

END