連作ー午後の光

熱い・・冷たい。

どうやって部屋まで戻ったのか覚えていない。扉を後ろ手に閉めた途端に、膝が崩れた。扉にもたれ掛かってしゃがみこみ、震えている肩を両手で抑える。身体中震えているのに吐く息が熱い。肩を押さえ込んでいる掌も熱い。戻ろうとした腕を掴まれ彼に抱きしめられたあのとき、唇から火が移っていまだに消えない。足先から眼の裏まで、血が熱を持って駆け巡り、耳には火の燃える音が聞こえてくる。

噛み付くように口付けされ彼の腕の中にいて、あのまま留まっていたかった、昨日も明日もすべて消し、今このときだけあればいい。力が抜けそうになった瞬間、心臓を凍ったものが貫いた。
―――アンドレの眼をつぶしたのはお前だ!
力いっぱい彼を突き放し、逃げようとする私の背中に刺さる悲鳴のような声。足を止めるな、振り返るな、耳を塞げ。私を呼ぶ彼の声が聞こえないところまで走って。

ふらつきながら立ち上がっても、まだ彼の声が耳に木霊している。寝室に辿り着き、寝台に倒れこむと雲の流れる窓の外を見上げた。窓はもう揺れておらず、風は弱くなったようだ。雲の切れ間から星がのぞいている。その星明りも朝焼けに消えていった。

少しでも眠れたら、朝になったら、熱が冷めるのかと思った。だが肺の奥におき火が残って、今にも燃え上がりそうだ。起き上がり、屋敷の小さな礼拝堂に行き跪いた。
乾いた彫像の下で、手を組み俯く。私は一心に、罪を贖えるよう彼の痛みを私に移してくれるよう、祈った。ずいぶん長い間そうしていたが、いつのまにか日が高くなっていることに気づいた。像は何も応えてくれなかった。

 

礼拝堂を出て、暗い廊下を突き当りまで進むと小さな居間がある。その扉を開けると、光が溢れていた。正午に近いのだろう、南向きのバルコニーから陽光が部屋に差し込みまぶしいほどだ。庭先で何かが光った。誰もいない静かな部屋を横切り、バルコニーから庭へ出る。

薄暗い場所にいた眼が明るさに慣れてくると、光っていたのは一重の白薔薇だとわかった。緩やかな風に花が揺れ、淡い香りが立ちのぼる。私は深く息を吸い込んだ。
目を開けると、花の先に母が微笑んで立っていた。晴れた午後に似つかわしい、薄い青に緑の蔓が刺繍されたドレスにショールを羽織って。
「・・長く祈っていたのね」
母は自ら手を入れて、見事に咲いた花を愛しそうに撫でた。風にあおられたショールが花の棘に絡まったのを、私は黙って解いた。母は俯いたまま、微笑みは消えていた。
「・・お父様と私は貴方にとても重いものを背負わせてしまったわ」
「そんなことは」
「正直に答えてちょうだい、私たちを恨んだこともあった?」
私は思い出す。父を見上げ、少しでも剣の腕をあげようとした幼いころ。近衛隊に入ったときの誇らしかったこと・・そして。
「それは、ありません。ただ、父上の望む道と私の信じるところが違ってしまったことが・・つらいだけです」
「貴方はいつもそう・・」
母は顔をあげまっすぐに私を見た。薄灰色の穏やかな瞳。暖かい掌が私の頬にあてられた。
「オスカル、祈るなら、罪より幸福を祈りなさい。愛するものの幸福だけを」
私は花の中で立ち尽くした。母は時折振り返りながら、屋敷のほうへと戻っていった。

 

何処にいる?
知らず、駆け出していた。彼を探さなくては、彼に聞かなくてはならない。庭を横切り、裏手へと回る。屋敷の中ではない、外だ。きっと近くにいる。理由のない衝動のまま走っていって、足が止まった。
彼は厩舎から出てきたところだった。屋敷に向かう細い道をこちらへ向かってくる。表情はまだ見えない。途中、樫の木の下で立ち止まり、幹にもたれ掛かる。動きは、足取りは不自然ではない。見えない人間の動作には思えない。ごく普通に、休んでいるだけのように。上を見上げていた彼が右腕で顔を隠した。木陰は彼を覆っている、木洩れ日が眩しいわけではなかった。肩が小刻みに震えている。
私は息をころし、音を立てないように近づいた。枯葉を踏む音すらさせず一歩づつ。彼は気づく?私が見える?

一歩・・・二歩。もう見えてもいい、気づいてもいいはずだ。私は此処にいる、お前の傍にいるんだ。アンドレ―――

「・・オスカル?」
びくりと立ち止まる。だが彼は私のほうを見てはいない。それからゆっくり、振り返った。その眼、ひとつ残った右目は。
「見えているのか・・私がわかるか」
眼はとても遠くを見ていた。問い掛けてから、その視線が私とぶつかった。答えが返ってくるまで長い時間があった。
「・・・・影なら、見える。明るい場所でならば。でもオスカル、お前はいつだってわかるよ」
「何故」
「見えているものが全てではないから。お前の気配、香り、足音。もちろん声も。全部わかる、記憶している、俺の中に刻まれているんだ。消そうとしても・・死ぬまで消えないだろう」

私は彼の前髪をかきあげ、白く残る傷跡に触れた。右目にも、そっと。頬をたどっていた指先を彼が掴んで、唇に含んだ。火が再び燃え上がった。
「消さなくていい、消そうとしないで。私を刻んでくれお前の中に。もう・・離れたくない」
唇が合わされる。灰になってもいい。二人骨も解けるほど、燃えてしまえば。お前と決して離れないと決めたから、灰になって交じり合えば、離れることはない。お前の傷も痛みも私のものだ。私の痛みもお前の。喜びも、愛も。

「愛している」
言葉にしたのは二人同時だったのかもしれない。私はお前の幸福を祈る。愛するものの幸福だけを。

 

 

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