連作ー闇夜

目を閉じるのが怖い。眠らなければと思うが、目覚めたとき何も見えなくなっていたら。強い風が厚い雲を流し、途切れ途切れに窓から差し込む月光に手をかざしてみる。

―――時間の問題だ。早くオスカル様に話して、目に負担の少ない仕事に変えてもらうか。あるいは・・・。

医師の診断に間違いはないのだろう。ジャルジェ家の主治医で、誠実な方だ。本来なら使用人の俺が診てもらえる立場ではなかったが、旦那様のご厚意で、左眼が潰れたときできうる限りの治療はしてもらった。治療半ばで包帯をはずしたのは自分の意志だ。まだ右目がある、何でも見える、お前の姿も。何も失ったわけじゃない。それにもし、傷ついたのがお前の目だったら・・。そう彼女に伝えたのは本心だった。

だが今は、何も伝えられない。ひたかくしに隠さなければならない。気づかれないよう、気取られたら終わりだ。お前の姿が見られなくなる、お前のそばにいられなくなる。生きたまま死ぬのと同じことだ。

目を閉じたくない。お前のそばにいて一瞬でも長く見つめていたい。今すぐ会いたい、抱きしめたい。俺は両手で目を押さえた。見えなくなってもいい、今は眠るんだ。鍵をかけ押し込まなければいけない想いは眠りの中に沈めろ。二度とお前に触れないと、誓ったはずだから。深く呼吸して静かに横たわる、しかし眠りはなかなかやってこなかった。風が窓を揺らす音が耳についた。

どのくらい時間が経っただろう。最初は空耳かと思ったほど小さなノックの音がした。問い掛けても返事はない、だが扉をたたく音が続く。いぶかしんで立ち上がり、戸を手前に引くと人影があった。暗い廊下ではぼんやりとした輪郭しかわからない。でも間違いはない、彼女だ。一瞬だけ雲が切れたのか、月の光に白い顔が暗闇に浮かび上がった。泣いていた。

どうして、こんな時間に、何故泣いて・・何が・・。
混乱している俺の腕の中に彼女が飛び込んでくる。腕に力をこめたまま震えている。俺は抱きしめたい衝動を抑え、髪を撫でていた。お前の体温が伝わってくる。その温もりを感じながら、ふと気づいた。
かろうじて見えていた金の髪が、周囲からだんだん暗くなってくる。淡い紫の夜着を羽織った彼女の肩も、自分の手も沈んでいく。何度も目を閉じては開けた。その間にも、右目の上のほうからゆっくり闇が下りてくる。月が雲に隠れたのではなかった。

俺が終わったんだ、いま此処で。

終わったと、思う心とは別の場所で、俺の身を案じている彼女の不安を取り除かなければならないと思った。見えなくなったと知ったら、オスカルはどれほど自分を責めて嘆くだろうか。お前のせいじゃない、俺の為に、お前が泣くことはしないでくれ。大丈夫だ・・大丈夫。彼女の耳元で囁きつづけ、俺たちは知らぬ間に抱き合っていた。見えなくとも伝わる彼女の鼓動、湿った息。ここから離したくない、永久に留めていたい。
だがやがて、彼女の手から力が抜けていった。こんな夜更けにすまなかった、驚かせて・・お前ももう休んでくれ、そう言って離れていく。

―――行かないでくれ、離れないで!傍にいてくれ!
戸に向かおうとした彼女の腕をつかむ、まだ濡れている頬を捕らえる。
「・・・アンドレ!」
叫ぼうとした彼女の唇を塞ぐ。折れるほど力をこめて抱きしめる。彼女が抗うのが判ったが離せるはずなどない。この腕の中にいるのに、どうしてすり抜けていくんだ。暗い、恐ろしい、傍にいてほしい。もう一時でも、離れたくなどないんだ。
しかし彼女はあらん限りの力をこめて、俺を突き放した。
「駄目だ、違うんだ・・・私・・私は」
廊下を駆けていく足音が遠ざかる。階段を下りていく。俺は立ち尽くしたままずっと、その音だけを、耳で追っていた。目で追うことはもうできなかった。
―――私はお前に愛される資格がない
彼女の最後の言葉が俺の血の中を駆け巡る。

もう足音は聞こえない。残ったのは彼女の香りと、風の音だけ。月は出ているのだろうか。雲が厚くかかり、夜は真の暗闇なのだろうか。判らなくてもいい。月の光も、金の髪も、もう二度と目にすることは無いのだから。

 

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