FAKE


彼女の求婚者、というよりは婚約者と言ったほうが事実に近い。彼は毎晩のように晩餐に招かれている。彼女は同席することもあれば、様々な理由を--主に軍務についてだが--盾にしては晩餐に帰らないこともあった。
俺は給仕を免れているので、その席での彼の、彼女の、将軍とその夫人のやり取りを耳にすることは無かった。冷ややかであるのか、和やかなのか。俺にはあずかり知らぬことだ。厩舎でオスカルの愛馬の手入れをする。遠くで門が開き、馬車が遠ざかっていく音がする。その音を聞くと、全身が砂になるような気がする。

血も流れず、体温も無い、意思もない。波打ち際で子どもが作る稚拙な砂像。いっそそうなればいいと思う。波に流されれば消えるだけだ。

屋敷に戻ると、オスカルに呼ばれる。着替えて腕を洗い、水の冷たさに気持ちを切り替える。いつものように、ワインを傾けることもあれば、すぐ手詰まりになるチェスの相手も。無為に弾くヴァイオリンを聴くだけのこともある。
こんな夜は、彼女も身体の一部を何処かに置き忘れているのだ。毎夜訪れる彼の話は決してしない。そのことが、俺達の間の深い欠落を物語っていた。

身分の違い。それは一日たりとも忘れたことはないし、忘れられるはずも無い。手を伸ばせば届く位置にいて、同じ空を見上げ、同じ花を見る。しかし彼女と俺では皮膚の下の血の色が違う。
街頭で広場で、誰かが声を枯らして叫んでいる。人は皆平等だ。生まれいでて生きているものは皆。それは希望か、それとも幻影なのか。平等だというなら、俺も彼女も・・異教徒も洗礼前に死んだ赤ん坊も、地の果てに住む肌の色の違う者も、平等で対等なのだろうか。
対等だというならいま此処で、愛を打ち明け抱きしめることが出来るのか。俺の役目は終わった、信じてもいない嘘をつくこともなく。妻を慕う召使を傍に置いてもいいと、勝ち誇ったように言われなくともすむのだろうか。

幻影だ。嘘だ。偽物の希望にすがっても、砂になったこの身が戻ることは無い。何より大切にしてきたもの、何時かは愛し返されるのかという願い、全て幻の嘘の希望が身を切り裂く。
生まれたときから身分という壁に隔てられているなら何故生まれた。何故出会った。何故愛してしまった。いっそ取替えのきく愛ならよかった。離れて他の女と出会って忘れられる想いなら。偽の愛ならどれほど良かっただろう。

いつの間にか彼女のヴァイオリンは終わっていた。物悲しく夜に吸い込まれる旋律は余韻を残したまま、俺達の間の沈黙を覆っている。微かな月の光に照らされた彼女の横顔。このまま、凍らせて永遠にとどめておきたい。方法は・・・・ある。ただひとつだけ。
俺は椅子から立ち上がった。おやすみと伝えたが、眠るつもりは無かった。扉を閉めるとき、オスカルはまだ消えそうに細い月を見上げていた。やがて雲が出てその頼りない月も隠れる頃、誰にも気づかれぬようひっそりと屋敷を抜け出す。闇夜の下、馬を走らせる。望むものは今夜中に手に入るだろう。ほんのひと匙ほどの薬。嘘を終わらせるための。

 

夜は、深い・・。

 

END

前サイト掲載時より改題(前タイトル;嘘の希望)