鐘の音

雨だれの音を聞いていると、昔のことを思い出す。僅かに窓が開いているのか、振ってはやむ夜半の雨の音が聴こえる。夕方までひどく重苦しく暑かった。雨は夜とともに大気を冷やしているのだろう。

流れ込む微かな風はひんやりとして心地いい。喉が渇いているはずなのに、二人ともまだグラスに手をつけてはいない。

「何故だろう、今夜は昔のことばかりを思い出す。お前と読んだ本や、母上が小さく口ずさんでいた歌・・お前と会った時のこと」
「・・俺はひとつ年下の綺麗なお嬢様に会えるものだとばかり思ってた」
「そのとおりだっただろう、違ったのか」
彼女が微笑む。この笑顔は変わっていない。
期待と不安に戸惑いながら、館の目もくらむような壮麗さに呆然としていた。そして、その時階段の上に天使が立っているのを見つけた。
---君、名前は?
声も天上の鈴の音のようだった。

「お前はよく泣いていた。でも、お前の故郷の話を聞くのは楽しかった。廃墟になった古城の冒険の話も。私も行ってみたくて仕方なかったよ」
「よく覚えているな、俺はもう殆ど忘れてしまった。なにせお嬢様の剣の相手に忙しかったから」
「羨ましかった」
「俺が?」
「友達と一緒に、遠い城まで歩いて行って、崩れていた石垣を登った。古い鎧が倒れていて、鼠に驚いて逃げ帰った。全部覚えているぞ。私も其処へ行って、お前が辿り着けなかった塔の上まで行ってみたかった。私もそんな風に・・自由に」
「・・・・行ってみようか。まだ、残っているかもしれない」
「そうだな」

あの古城、子どもの足では遠すぎて、帰り着いたのは日も暮れてからだった。母は家の前に立っていて、俺を見つけると駆け寄って抱きしめた。

「お前の母上のことは、時々しか話してくれなかったけれど、よく想像していた。お前に似た面差しで、黒髪で、優しそうな人だったんだろう。そうだ、あの話も」
記憶の中の母はおぼろげになってしまった。俺を呼ぶ声、繋いだ手の柔らかさ・・それしか残っていない。
「鐘の音のこと。お前が生まれたとき、雲が切れて、光が差してきて、世界中の祝福の鐘のなる音が聞こえたと。夏の終わりの緑が、何処までも深く美しかったと。そうお前が語ってくれた。とても懐かしそうな悲しそうな目をして。私は多分、その時何も答えてやれなかった」

---窓が開いていたの。お前の泣き声を聞きながら外を見ると、光が溢れていて、風が遠くの山まで緑を揺らしていた。全部覚えているわ、アンドレ。

母の声が蘇った、今まで忘れていたのに。はっきり聞こえてきた。何故・・・。
「私はその話を聞いて、母上の部屋へ駆けて行って膝にしがみついた。でも何も言えなくて・・お前にも」
「もう、昔のことだ」
「私は多分、私の生まれたときも鐘の音が聞こえたのか、母上に尋ねたかったんだ。でも聞けなかった・・どうして今夜は、こんなことばかり思い出すのだろう」
「・・・雨のせいだよ。静かで、ひんやりとしていて。ふと、何かを思い出すと止まらなくなる。そんな時もあるだろう」
「そうかもしれない。人は死ぬ前に、人生の全てを一瞬で思い起こすとも聞く。こんな感じなのだろうか」

死ぬ瞬間、人は生れたときから鼓動の止まるその刹那まで、全て思い浮かぶのか。俺も・・母が聞いたという、鐘の音を思い出すのだろうか。生まれ落ちたその時のことも。

「私の生まれた夜は雪が深く、昼からずっと降り続いていたそうだ。風も無く、雪が全部音を吸い込んで。静かで・・静かな晩だったと。母上は私の産声以外、何も聞こえなかったのかもしれない」
「それでも・・」
「それでも?」

「お前が生まれた晩は聖夜だった。人々は手を組んで、愛する人たちの幸福と平安を祈った晩だった。世界中の鐘が鳴って、人は皆、神の祝福を受けていた。きっと聞こえていたはずだよ。祝福の鐘の音が」
「本当に?聞こえたんだろうか・・」
その夜はきっと・・地上から争いと嘆きが消えただろう。人のいるあらゆる場所で、その夜だけは、誰もが愛する者のことを想い、雪の音で眠りについただろう。静かに・・優しく・・雪は降り続く。海の底の魚さえきっと眠っていた、安らかな夜。

―――そうだ、お前は祝福と愛情の子どもだった。その夜には俺も、遠くに鐘の音を聞いて、暖かく安らいで眠っていただろう。その先に出会う誰かのことを待ちながら・・。

それから二人とも黙って、雨の音だけを聴いていた。彼はやがて立ち上がり、手を付けられないままのワイングラスに手を伸ばした。精巧に削られ細工されたグラスは、深い赤の液体を満たしたまま床に落ちる。
彼女はグラスを卓から払い落とした彼の、眼を見ていた。暖炉の薪が、燃え尽きる最後に鈍い音を立てる、その炎を映して揺れるただ一つの瞳。

 

「おやすみ・・オスカル」
そう言って彼は彼女の頬に手をあてた。黒い瞳の中に、もう炎は見えない。掌は暖かかった、ずっと前から知っているように。
彼が静かに扉を閉めて、部屋から出て行ってからもしばらく、彼女は立ち上がれなかった。床の上には砕けたガラスの欠片が鈍く光っている。零れた液体は誰かの血に見えた。

外の雨の音は次第に静かになっていき、やがて雨垂れが規則正しく窓に落ちるだけになる。その音は鼓動のように、止むことなく続く。溶け合うことのない二人の、心臓の音。

 

END