ソノ女、黒紅ノ闇ノ中ニ浮カブ。月白ノ膚シタ背中ニ影ガ差ス。ソハ彼ノ男ノ掌。面妖ナくちなわノ如ク這ウ。

それは重苦しい夜に見る夢。あるいは夕暮れ時、ひとり馬を曳いていく折に立ちのぼる幻。現実ではなく、ただ己の胸のうちに巣食う黒い塊だと判っている。判ってはいるが・・。

 

馬を贈られた時、彼女は見事な栗毛を愛し気に撫でていた。彼が着けた鞍にまたがり、ひとり遠くへ駆け出した。その後ろ姿が広野の向こうに消えるのを見送りながら、彼の肺の下から何かが沸き上がってきた。見ずともわかる、彼女の表情。こころもち紅潮した頬の色、嬉しさと戸惑いと一抹の哀しさを秘めて、伏せられた睫。馬を疾駆させながら、彼女自身も気づかない想いに馬にかける声も高ぶる。

――素晴らしい馬だ
帰ってきた彼女は、馬上で息を切らしながら賛美した。伯爵の眼は確かだ。心ばかりの贈り物の選択を誤まる男ではない。故国でもフランスでも最高権力者に侍る貴族として、生れ落ちた時からすべてを持っている。非の打ちどころのない物腰、耳に心地よく響く低く柔らかい声、貴婦人の手を取る仕種さえ洗練されている。フランス宮廷がいかに巨大であっても、生まれ持った優美で抜きんでる者は少ない。

だが伯爵という男は、己の持っている資質に無頓着ともいえるほど自然だった。だからこそ愛され許されて、人の輪の中にいられることを知っていた。その若く青い男が、初めて許されない者であることに気づいたのと、彼女がその男を目で追うようになったのは何時だったろうか。

愛なく結婚するのかと憤った彼女に、愛があれば結婚できるのかと答える歪んだ口元は、屈託のない若者のそれではなく、痛みを知った青年のものだった。その表情を見る彼女もまた。そして彼らは、全てを横で見ていた男に気づいていなかった。

 

激高と悲嘆の只中にいる人間は気づかない。ただ傍にいる者だけが全てを見て取っている。彼らにとって横にいる人間は存在しているが、いない。怒りをあらわにするとき、悲しみに暮れるとき、彼らはひとりであってひとりではない。仮に傍らにいる男の表情をうかがったとしても、何も読み取れなかったろう。沈黙することに慣れた男の感情には。

部屋に立ち込めた薔薇の香が諍いの空気に乱れるとき、床を黒いくちなわが這っていることに誰も気づかない。目に見えない重黒い感情は、身の内に押しこめられて沈殿した。そして夜の部屋で牙を剥く。

 

彼女は伯爵を愛している。
昼のうち言葉にできなかった残酷な現実は、眠る前のひとときにはっきり現れる。彼女の怒りは率直で、愛した男が愛に殉じないのは何故なのか、愛はその対象に向かうべきではないのか、そう問う言葉は全て彼女自身の愛を肯定している。愛することに恐れを抱かない純粋な怒り。彼はその怒りが眩しい。彼自身の愛は眩しさを押し殺すものだから。

彼女なら、たとえ報われない相手でも、眩いばかりに強い愛を向けるのだろう。その愛に男は気づき屈するだろうか。闇に惑う者は差し込む光を求めないのだろうか。可能性はあり、彼らを阻むものはない。抱き合う男と女に影など差さない。

その未来は明日であるかもしれず、眠ってしまえば明日は来る。眠るのも愛を表してしまうのも恐ろしい。いつまで、この喉を食い破る感情を抱えていられるだろう。いっそ愛など知らぬ人生ならよかった。身の半分を切り落として愛が消えるなら、躊躇わずそうするものを。煩悶する夜は更け、求めない眠りはやってくる。明け方に見る夢にも救いはない。

贈られた栗毛と、伯爵が女王から賜った白馬とが並んで進む。夕陽が落ちようとする丘の上で、彼らは話し込んでいる。やがて栗毛だけが戻ってきた。早足で彼の横をすり抜け館へと。白馬の上の影は紺青に変わろうとする空を背景に悄然として佇んでいた、いつまでも。

厩では栗毛が所在無げに低く嘶いている。そのたてがみを撫で宥める彼の耳に、遠くヴァイオリンの音が聴こえてくる。夜の中に音は高く低くなり、弓持つ手の逡巡を語っている。彼はその場所から動けなかった。館に入れば、部屋に呼ばれるかもしれない。ワインを持ちノックして、声をたてずに震えている彼女の横顔を見るのだろう。そしてまた黒いくちなわが背中を這うのだ。叫びたい想いを押し殺して。

 

その幾晩か後、彼女は礼装に身を包んだ。白い布の重さも腰の剣の硬さも微塵も感じさせず、ただ革靴の音だけが重かった。夜なお明るく万の燭台が煌く広間で彼女は踊った。ただ守るために。愛する者を守る光。許されない恋人達の罪は、発光する彼女の陰に紛れ見えなくなる。怖れず挫けず包みこみ、目の眩むほどに輝きわたる彼女の愛。報われないなら報えない者どもごと愛すればいいと。

その輝きを、それでも彼は愛しいと思った。出会ったときからその眩さを愛でてきたのだから。

 

夜、ひとりの部屋で彼は思い出す。階段の上にいた金色の子ども。その光は彼女の中から漏れ出るのだと気づいた。強靭で鮮烈な彼女の魂が眩かった。彼女はあの頃から変わっていない。彼女は迷うことなくただ愛している。傷も恐れも知らない幼子のように彼女は愛する。愛することのみを知り、愛されることの重さを知らない。愛が歪み相手を傷つけることなど思いもしない。

彼女の明瞭な無垢は、時として彼女を愛する者を切り刻む。その傷ごと愛するほかはないことを、恐れ慄いても逃げることは出来ないことを、彼は知っている。

 

今夜も、黒々としたくちなわが部屋の底に這っている。どす黒く変質したとしても、彼女を愛する心であることに変わりない。彼は床のそれに手を伸ばした。幻影とは思えぬほど、はっきりとした重みと渇いた手触りがあった。彼女の愛の光でこの蛇が消えることがあるだろうか。あるいは・・蛇が己を飲み込んでしまうことが。

彼は知りえるはずもない。ただ身の内にくちなわを抱きながら、今宵の望月のような愛に照らされることそれだけを、明日の望みとして生きる。いつか、金色の光に手を伸ばせることを――祈って。

 

END