愛を数える

始めは歩幅を意識するところからだった。歩くときは一定の幅、一定の速度。頭の中で時計の秒針を鳴らしながら歩く。一、二、三、四・・。部屋の端から扉までは何歩、階段までは。そして歩幅から距離を考える、一、二・・。見えているときでも、光を感じる右目を閉じ、瞼の裏の残像を感じながら。寝台から扉が五歩、階段までが十七歩。

壁を伝う腕は肘より上げてはいけない。何気なく、所在無げに手を伸ばしているだけのように見えなければ。左手の中指が触れている手すりの柱は、三段ごとにひとつ。段を数えなくてもいいのは少し楽だ。踊り場から下は踏み幅が狭くなる、気を付けなくては足を踏み外す。

見えないままで歩くのは恐ろしい。何十年と馴染んだ館の中でも、昨日まで何もなかった場所に花入れが置いてあり、侍女が抱えきれない花束を持って前を見ずに庭から入ってくる。庭に通じる扉が軋んで開く音、花束を抱え直すときに小さくこぼした声で誰かわかる。近づいてくる足音でどこにいるのかも。何気なくふり返ったように見せて、少し距離を置く。
もしぶつかったら。取り落とした花を拾って手渡すとき、茎でなく花弁を持ってしまわないだろうか。手探りで花を捜す動作を不審に思われはしないだろうか。しかし侍女は彼の横を通り過ぎた。気取られはしなかった、少なくとも今日は。

厩舎に入ると、中は薄暗い。ここでようやく少し緊張を解くことが出来る。ぼんやりとした影しか見えないが、小さな嘶き、息遣い、触れた時の首の振り方、それだけで馬がどんな様子か判る。皆、彼が来るのを待っていて首を向けてくれる。歩数を数えなくても、隅から隅まで足が覚えている。彼は馬の背を撫でながら、深く息をつく。ここでは彼を見咎める者も、責める者もいない。自分以外の生命のぬくもりを感じて安堵できる数少ない場所だった。

外へ出ると光が眩しい。見えている。闇は気まぐれに彼を脅かし、唐突に立ち去る。見えている間は全て見ていたい。背の高い樫の木洩れ日、今にも咲きそうに膨らんだ白薔薇の蕾、彼女がいつも愛し気に撫でている。その光景を刻みつけたい、失いたくない。瞬きした、次の瞬間に全て消えてしまうのではないかと、怖れから息を止める。

だが何より恐ろしいのは、彼女に知られてしまうことだ。眼のことを知ったら、彼女は決して己を許さない。彼女は嘆き、彼を遠ざけるだろう。身分の差以上に、強固な壁が立ちはだかる。彼女の悔恨という。

彼女の姿が見られなくなること、彼女の傍にいられなくなること、思うだけで心臓が凍りそうになる。しかしそれ以上に、彼女を嘆かせたくない、決して悲しませたくない。

想いにふけりながら、陽の傾いていく庭先を歩く。冬から春へ変わる季節、陽は長くなり空の色を刻々と変えながら染めていく。万華鏡のように変わる空の隅に浮かんだ薄い月を仰いでいると、視線の先に人影があった。冬の終わりの庭は物寂しい。花も芽もまだ眠っていて夕方の風に揺れる枯れ葉すらない。その只中に、色彩がある。夕陽の朱に照り映える金、暗闇に沈んでいく中になお輝く星の青。彼を見止めて声をかけようとする唇の緋色。

 

今、この瞬間に目に見えるもの全てを失ったとしても、生命そのままの鮮やかな色彩だけは忘れえない。

 

一歩、二歩。近づいていく、三歩、五歩。彼女のいる東屋までは十七歩。微笑んで彼を呼ぶ彼女の傍へ辿り着いた。夕暮れから夜へと変わる時間、彼の周囲が薄暗くなってくるのは夜のせいではなかった。やがて眼の裏の諒闇と夜の闇が等しくなる時、彼はようやく眠りにつく。今日も彼女に知られることなく終われた。遠くを見ていても、その先にあるものを見ているだけだと。明日、目を開けた時に見えているかは判らない。二度と気まぐれな光は訪れず、闇に閉ざされるかもしれない。それでも、忘れるはずのない美しいものが其処にあるのだから。だから生きられる。傍にいられるという希望だけを抱いて。

眠ろうとする彼は、また足音を数えていた。一歩、二歩。目が覚めればまた数えながら闇の中を歩く。でも目覚めている間も眠りの中でも、輝く光がある。消えない光がある限り、進むことが出来る。

 

オスカル、また明日会える。お前だけはいつまでも――光の中にいてくれ。

 

END