海獣の夜

夜の海に行っちゃいけないよ。

父が死んだのは五歳の時だった。覚えているのは日焼けした腕と背の高さ。幼い俺が仰ぎ見ている。時たま、父よりも高い視界で周囲を見ていた、あれは肩に乗せてくれていたのだろう。幼い少年の足を握っていた掌の暖かさ、大きな手。

夜の海には、魔物が住んでいるんだ。

海を見たことはなかった。小川で見る小さな魚しか知らず、真っ暗な夜の海の底に、異形の魔物がいることも、想像できなかった。大人より大きな牙のある魚、押しつぶされたように平たく両手で抱えきれないほどの魚、岩にしがみつき夜に砂を吐き出す花のような生き物。寝物語に語られるそれらは、天井の影に揺らぐだけ。

昼に熱くなった砂は夜にはすっかり冷たくなって、黒い波の向こうからやってくる。だから・・・。

父は海を見たことがあったのだろうか。

 

父の物語を聞いた日からもう数十年経った。ここノルマンディーの海は青い。しかし夜になると、空の黒と溶け合うほどに暗くなる。空に星は瞬いているが、海は小さな白い波が微かに揺らぐだけ。

近衛から衛兵隊に移るその間の数週間に、この別荘を選んだのは彼女だ。ひとり浜辺を歩き、砂の付いた靴のままバルコニーから部屋へ帰る。手すさびにモーツァルトを弾く。波打ち際を馬で走る。何処まで行っていたのかは知らない。

遠乗りに誘われることもなく、ワインの後チェスを差すことも無い。夜、馬の手入れをして館に戻るとき、見上げると彼女の部屋に灯りが揺らいでいる。何をして、何を想っているのだろう。

――ノルマンディーの別荘へ行く。お前も来るんだ。
そう言われた時、固辞すべきだった。守るためにいるはずの俺が、お前を傷つけた。旦那様の命令だとしても、傍にいていいのだろうか。そう彼女に問いたいと思いながら、心を知ることに怯んでしまう。何より、重い扉を破って暴走した自分自身が恐ろしい。二度とお前に触れないという誓いを守れるのか。陽に透ける金髪に、手を伸ばさないでいることが。

昼の暑さが壁に籠っているようで寝付けない。起き上がり、階段を下りて、裏手から外へ出る。波の音が近くなり、林の細い道を辿って浜へ出た。月が、空と海の間に昇っていた。黒い海面に、白い道が出来ている。揺れながら沖から、波打ち際まで真っ直ぐに。何も考えないまま、一歩一歩その道に近づいた。海は凪いで波頭は見えず、波の音すら静かだった。

足首が濡れる。膝に波があたる。指先で飛沫を受けながら、底の砂に足が沈む。波が繰り返すごとに、砂が絡まっていく。眼前には月の白い道だけが――――。

「アンドレ!」
我に返って振り返ると、彼女が立っていた。
「何をしている」
「いや・・・月が」
あまりに綺麗でそれしか見えなかった。そうとしか言えない。
「夜の海に入っては、駄目だ」
何処かで聞いたような言葉に、彼女のほうに向きなおった。海風に金髪が揺れている。
「オスカル・・俺は、お前の傍にいていいのか」
彼女は答えず、少し俯いてゆっくり俺に近づいた。裸足の白い足に寄せる波があたる。そして黙ったまま手を伸ばし、海の向こうを指し示した。

 

「あれが見えるだろう」
白く光った海面の一部に、黒い影がある。海に突き出した小さな岩。
「昔、あの岩までお前と競争した。泳ぎは私のほうが上手かったのに、お前が先に着いて」
「そうだったかな」
「悔しかったよ」
彼女が微笑む。
「悔しくて眠れなくて、次の朝が待ちきれずに夜の海へ出た。今夜のように月が出ていたから、あそこまで行けると思った」
あれは幾つの時だったろう。初めて見る広い海に驚いた。長い一日が終わると、名残惜しく浜を後にする。振り返ると夕陽が水平線を染め、燃えるような太陽が落ちていく。昼とは違う夕刻の海。では夜は、夜の海は?そう思って今日と同じように林を抜けた。

浜辺に立つと海は暗かった。波の音も違って聞こえる。夜の海に行ってはいけない、誰かの言葉を思い出したとき、彼女が泳いでいるのが見えた。驚いて名前を呼びながら近づいたが、一瞬足がとられ沈んでしまった、その時。

魔物を見た。地獄の犬のような牙、見開かれた灰色の眼、ヒレは馬の首より大きい。黒々とした口を大きく開け、小さな魚を吸い込みながら迫ってくる。水底の砂が舞い上がって、一瞬何も見えない。飲み込まれる、そう思ったとき何かが光った。

碧い光に手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。海面に顔が出ると、思い切り息を吸い込む。気づくと波際でふたり、座り込んでいた。見渡すと、海は月光を反射して静かなまま、海獣の気配さえなかった。

――ごめん
そう言ったのは二人同時で。それから二度と、夜の海に近づかなかった。

 

「・・そんなこともあったな」
「私は・・お前が傍にいるのが当たり前だと思っていた。それがお前を苦しめていたとしても」
「苦しいばかりじゃなかった」
「これからも、傍にいてほしいと言ったら・・許してくれるか」
いつの間にか月が中空に昇っていた。白い道が次第に短く、小さくなっていく。ああ、そうか。昼の紺碧の海と、夜の漆黒は混じりあわない。でもそれは同じ海だ。光の蒼と闇の黒は――。

「お前に許されるなら、命ある限り傍にいるよ」
彼女が手を伸ばして俺の手を握った、暖かかった。夜の海の冷たさが溶けていく。

いつか、ふたりで夜明けの海をみよう。月が沈み、海と空のあわいから色が変わっていく。波が白くなる。水平線に長く細い光が広がる。白から次第に紅くなり、海面を染める。海の中にも光が届く。黒壇、藍色、小金、金赤、紫紺、天鵞絨、世界の全ての色が、夜明けの海にはある。

蒼と黒が混じりあうその時が・・来ることを願う。

 

 

END