蛹の中

蛹の中で一度溶けた肉体はもう一度形作られ蝶になる

 

ヴェルサイユは不夜城だ。しかし夜なお明るい億万本の蝋燭でも、暗闇と夜を完全に排除することは出来なかった。

「・・其処にいるのか?」
自室に戻ると灯りが無い。襟元に汗が流れる軍服を脱いで、寝台に倒れ込みたい。そう考えながら、部屋に入ると驚いて立ち止まった。
私が帰ってくる時、いつも部屋は明るすぎず、でも動くのに差支えの無いよう蝋燭が調節してある。仄かに香るメリッサの一枝が差してあることもあった。風のある夜は少し窓が開けてあり、寝苦しい夜は冷やしたワイン。

だが今日は、薄明かりの廊下から入って扉を閉じれば何一つ見えない暗がり。見知ったはずの自分の部屋でも、一歩動くことすらできない。暫く立ち尽くし、暗闇に目が慣れるのを待った。しかし未だに真の闇だ。
「・・お帰り」
暗い洞穴の奧から声がした。よく知っているはずの声。
「どうしたんだ、今日は・・これは」
「暑かったろう、湯が入っている」
私の問いに応えないまま、足音が近づいてくる。彼は何故この暗闇で動けるのだろう。そしてひんやりとした掌が私の手を取った。盲た者のようにその手に導かれながら歩き、立ち止まると彼が背後に回った。サッシュを解く、剣を置く、軍服の掛金を外す、ブラウスの釦、キュロット、コルセットの紐、全て暗闇の中でよどみなく彼の手が動く。私は石像のように動かない。水音がした。彼が湯を確かめているのだろう。私には見えないが。
背中をそっと押され、私は覚束ない足取りで湯の中に入る。少し冷めた湯は熱すぎはしない。自身が水に入る音はしても、伸ばしたはずの己の腕すら見えないのはどうしたことだろう。眼を閉じても開けても同じ闇だ。
彼の手が私の髪を濡らしながら梳いている。昼間に染み付いた汗と砂埃が流れていく。闇への恐れが束の間遠ざかり、深く息をついた。ここは自室で、幾万時間も共に過ごした彼の手に委ねられていて、何を不安に思っていたのか。私の問いに答えずとも、髪に触れる優しい指は変わらないのに。

その手が頬を伝って私の顎を捕らえた。唇の両端に当たっているのは中指と人差し指。舌の上に爪の味がする。左耳を彼の唇が吸っている。右手は私の胸を包み、鳩尾から腰へと降りていく。揺らいで跳ねる水音が大きくなった。彼のシャツが私の裸の背中に張りつく。身体の中心を撫で上げられ、反射的に湯船の淵を掴んだ。暖かく柔らかい湯の中にいるのに、全身が痺れたように熱い。闇雲に握った手の中に天鵞絨のような手触りがあった。それが何であるのか思う暇もなく、舌で肩の骨を吸われた瞬間逃れようとして湯の中に沈んだ。

口に湯ではない苦い味がして、私はそれを噛んだ。薄い天鵞絨の舌触り、薔薇の花弁だ。湯船の中も手を伸ばして触った部屋の床も、一面に花びら。暗がりの黒に見えていたのは、光を吸い込んだ紅い花だった。

彼は逃げた私を追い詰め、水中で唇を捕らえた。舞い上がる花弁で何も見えず息もできない。何かを掴もうとした手は天鵞絨に阻まれ、彼の胸にしがみつく。唇は咽喉から胸元へ進み、胸の先端が吸い上げられる。私の身体が跳ねたが、もう逃れる術はない。何度も沈んでは浮かび上がり、また沈む。己が息をしているのか止まっているのか、生きているのか死んだ後なのかすらも判らない。ただ熱く繋がっていく、それだけ確かだった。紅い闇の中で何も見えずただ揺さぶられる感覚。血流が逆巻き眼の奧が熱く痛い。耳には激しい水音と彼の声。愛してる、離さない、離さないで、もっと深く、熱い、壊れる、甘い、痛い、もう二度と、私に、溺れた、お前と。

繋がっているところから、内臓が全て溶けて流れ出す気がする。彼にしがみついている腕も、皮膚が弾け、肉がばらばらになり骨だけになった。その骨すら無数に砕けて消えてしまう。律動が激しくなる、吼える声は私か彼か。
「――オスカル!」
彼に呼ばれたその瞬間だけ、私は目を開けた。夜より濃い隻眼、濡れてかぶさる黒髪、浅黒い肩の線、それだけが見えた。何も見えない闇の中で、彼だけが。

 

どうして彼は暗闇で動けるのだろう・・・意識が遠ざかる中、答えられなかったその疑問が浮かんだ。私には何も見えないのに、お前以外。何故・・どうして・・・どうして・・・。

 

どうして、私は気がつかなかった。紅い花弁で満たされた暗闇。それは彼が見ていた、感じていた世界。あの夜、暑い夏にはもう、赤黒い闇しかなかったのだ。眩い光を見てから眼を閉じた後の残像を感じることなく、朝の眩しさに目を細めることも無く、私を・・私の姿を見ることも無かった。

石畳にまた、紅い花が散っている。視界は暗く、水の中に沈んでいく。懐かしく暖かく秘密めいた、蛹の中へ私は戻る。羽化した蝶にはきっと、黒と青の紋様があるだろう。濡れた羽が渇くころ、蝶は飛ぶ。眩しい空へ向かって――。

 

END