横顔

その顔は、金糸に見え隠れする左耳、鋭くもなだらかな顎の線、紅珊瑚の口元が僅かにみえる横顔。つと振り返り、金の睫に縁取られた瑠璃の瞳を彼に向ける。

 

――午後からの閲兵はB中隊ではなく・・
白い歯が僅かに見え、紅い唇が小さく動く。向き直り、正面を向いた顔は、左右対照の眉が片方だけこころもち上がっている。何かを考えながら話す時の癖だ。
――ダグー大佐に伝えてくれ
彼が応えると、彼女はまた前に向き直り歩きだす。ふと足を止めて、光の差し込む右の窓を見ている彼女の顔は見えない。

彼が立つのはいつも左だった。昔からの習慣ではあったが、左目が潰れてからは常になった。右目だけに映る横顔は、以前とは少しだけ角度が違っている。
窓の外からの光を浴び、揺らめく木々の影を受けているであろう、顔。幼い頃から見つめ続け、あらゆる表情を知っている。その顔に一瞬たりとも同じものはない。
――すまない、待たせた。
彼女は振り返ることなく、また歩き出す。耳の曲線だけが見え、表情はうかがえない。しかし少し下がった肩や、力なく降ろされた指先で彼女の心はわかる。それもまた顔だったから。

彼は思い出す。歪みのない貴重な鏡を惜しみなく使ったあの回廊。硬い鬘に髪粉を振りかけた人々の間を、彼女は髪をなびかせながら足早に通り過ぎた。彼女の美貌は人を畏れさせ、道を開けさせる。見つめれば眼を焼かれる太陽、触れれば凍ってしまう氷像のように、人は彼女を遠巻きにする。美しさは力だ。だからこそ、彼女の発する光の中に、望んで入ろうとする者はいなかった。彼のような、光の中で己自身が影になる覚悟がなければ。

 

夜が来る。ワインを傾けている彼女の横顔が窓に映る。頬の線は日毎に鋭くなり、紅い蝋燭の灯りでも消せぬほど膚は青白い。紅玉のような唇と、伏せられた睫の下の瞳だけが光る。彼らは卓を挟んで向き合っているが、語らない。薪のはぜる音、ワインを注ぐ音、強くなる風に窓が揺れる音だけが響く。
――お前が生まれたのも、こんな夜だったのか
昔、彼女から聞いた。冬の夜、昼の間静かに積もっていた雪は、吹き荒れる風に舞い上がり、白い闇だったと。
――お前は夏の明け方に生まれたんだろう。曙光と共に生を受けた。
黒髪の母から彼が聞いたという昔語り。お互いが互いを知らない頃の話は数えるほどしかない。
――遠い場所で生まれて出会えたことは・・・奇跡のように貴重なものだ。
彼女は呟くように言うと、再び沈黙した。手はワインから離れて、卓の上の彼の左手に重ねられている。冷たい夜の中で、重ねた掌の温度だけが伝わる。

 

冬の朝の透明な光が、一面の雪に煌く。彼女の白馬と彼の栗毛は、雪の上に規則的な足跡をつけながら進んでいく。
――駆けるぞ、アンドレ。
鞭がしなり、蹄が雪と土を撥ねる。揺れる髪に覗く頬は紅潮して、吐く息は白い。彼も凍った息をなびかせながら追う。彼女が走る先へ、進む方向へ。

彼の見つめる横顔、左の顔。振り向いて、栗毛が追い付いているのを確かめる。舞い上がる無数の雪の宝石の中で、ただ愛しさだけをこめて見つめるその顔は誰のものか?雪の上を駆けるこの瞬間だけは、彼のものだった。見つめ見られることで完成する横顔を。

 

やがて雪が融け、短い春の後に暑い夏がやってくる。乾燥した大地は砂埃をあげ、怒号が地表を満たす。無数の顔が荒み、恐れ、怒り、激高し、怯み、煩い、悔やみ、憂い、嘆く、その中でたったひとつ。荒れ狂う嵐に侵されず、輝く白い横顔が風のように通り過ぎた。それを見ていたのは、深淵に黒い左眼だけだったことを、誰も知らない。

 

END