この身体に触れるのはただ一人だろうか?

 

白く冷ややかで熱い身体。凍土のように硬く不落と思われた女が腕の下で熱く溶けていく。
―――は・・っ・・
声とも溜め息ともつかない熱を帯びた呼吸が、耳元にかかる。息を感じた左頬が、火傷のようにひりつく。身体が浮いた瞬間を逃さず、腿を掴んで開かせる。もう十分に溶けていると判っている。何度も幾晩も抱いた。乳房を掴むと身体は跳ね、抗うように押し戻そうとして伸ばされた手は、溺れて肩にすがる。繋がっていくと、溶けていた身体は熱い溶岩に変わる。汗で滑る膚の奥に、火を噴く肉塊があった。眼の裏に赤い火花が散って、頭蓋の中で血の流れる音が反響する。熱い苦しい息が出来ないこの身体を、誰にも触れさせたくない。

 

一斉射撃の音が響き、副官の号令が聞こえた。訓練を終えた者達が、兵舎にあふれる。司令官室に向かうオスカルに、何人かは視線を向けている。アランが市内巡回の報告を持って入ってくる。俯いて書類に目を通す彼女の髪が、汗と湿気で頬に張りついていた。アランの眼がそこに吸い寄せられているのを、傍らのアンドレが見ている。
何かを感じて顔を上げたアランと、彼の眼が合った。アランは一瞬息をのみ、そのまま顔を伏せて退室する。

 

―――オスカル
名前を呼ぶと彼女は振り向く。微笑み、肩に腕を回して身体を預けてくる。夜着の薄い絹地はじかに触れるより彼を煽った。口づけはいつもより熱く激しい。胸に脇腹に噛みつくように痕をつけていくが、うなじや手には痕跡を残さない。昼の彼女に夜を感じさせないように。風になびき光をはらむ髪、硬い軍服の袖から覗く細く紅い指先、軍靴で歩く足音すら男たちを魅了する。もう何年も、宮廷で軍隊で、幾千の男が彼女を目で捕らえたことか。彼には男たちが考えていることが分かっていた。頭の中でどれほど彼女を蹂躙しているのかを。

 

――わかってますか?爆発寸前ですよ。
パリの巡回から馬で帰る途中だった。三部会の選出を控え、浮足立った市民は其処ここで軍相手の小さないざこざを起こしている。
――民衆がか?
――はぐらかさないで下さい。
アランとオスカルが駒を並べている後ろに彼がいた。騎乗の軍人とは言え、いきり立った民衆から襲われないとも限らない。アンドレは背後にも目を配りながら、周囲を警戒していた。
――充分・・判っている。だからその話は終わりだ、アラン。警戒を怠るな。
――申し訳ありません。
叱責されたアランは少し離れ、路地や街路を見回した。振り返った時、背後のアンドレと一瞬目が合ったが、彼は硬い表情を崩さない。陽が落ちようとする空に遠くで低い音が轟いた。
――雨が降りそうだ、走るぞ。
駆ける彼女の揺れる髪が、夕陽を照り返して光る。そのすぐ後ろに並んだ男の背中とを交互に見て、アランは馬に激しく鞭を入れた。二人を視界に入れないように、追い越しながら真っ直ぐ前だけを見ていた。

 

遠くへ行こう。
勤務が苛酷になるにつれ、二人して非番の日は珍しい。春先とはいえ、風にかすかに暖かさを感じる日、朝も明けきらないうちに彼女が誘った。馬を走らせ丘に向かうと、まだ靄がかかっている。先を駈けていた彼女が何も言わず馬を降り、茂みに分け入っていく。黙ったまま二人して歩くと、次第に辺りは晴れて、緑の下草が生い茂る場所へ来た。
―――此処には誰もいない。お前と私だけ。見ているのも聞いているのも、鳥しかいない。だから伝えておきたいんだ。
何を?彼女の指が彼の頬にあたる。ひんやりと霧に湿った指先。

「愛してる。愛し続けている。私の恋人も、夫もお前だけだ、なにがあろうと・・未来永劫」

不安なんだ・・・ずっと不安だった。愛しあっている今日が明日も続くとは限らない。愛を知って花開くように美しくなったお前を、誰かが摘み取りはしないだろうか。力強いお前は、どこかへ飛び立っていくんじゃないだろうか。俺はお前を失ったら何もない。失えば、砂袋のように生きていくのだろうと判っている。だから腕の中に留めておきたい、縛っておきたい、窓のない塔に鍵をかけ閉じ込めて、お前の最後の光を奪ってでも・・・俺の中にそんなどす黒いものが渦巻いていることを、お前は知っている。知っていて・・。

知らないのか?お前を誰にも触れさせたくないのは私も同じだ。お前の目に映るのは私だけでいて欲しい。お前の中に入って、ただひとつの瞳が、私しか見ていないことを確かめたい。朝の明けきる前に離れて、またまみえる数刻が耐え難い。離れている時、お前は今どこを歩いているのだろう、何を見て何を感じているのだろう、想わずにいられないんだ。

 

「己の命より、お前を愛しているよ」

 

春を告げる鳥が高く飛んでいた。小さな羽の上を、午前の太陽が暖めている。一陣の風がおこり、芽吹いたばかりの木々の梢を揺らした。その下で、恋人たちが抱き合っている。木洩れ日が彼らを揺らし、口づけする彼らの頬は、光に溢れていた。