忘却(長いお別れ 二次創作)

長いお別れ」より 二次創作。一応ネタバレ回避。

 

手紙を書こうと思う。いや、書かなければならない。僕はありとあらゆる失敗をやったが、それでも人生に何かしら、報いなければ。

 

未だに、彼がどうしてああまで僕に親切にしてくれたのか判らない。酔っぱらって妻に捨てられた時近寄ってきてくれた、彷徨い道端で崩れているところを助けられた。ランディやメネンデスのように僕に借りがある訳でもない。誰かに紹介されたのでもない。ただの通りすがりの他人。

これまでも僕に近寄ってきた人間は多い、誰もが僕に劣らず矮小で卑劣で弱かった。妻やランディ達のように僕を利用し、僕が利用した大勢の人間。僕はそれに相応しい。だから、彼も同じだと思っていた。しかし窮地に陥った時、借りのある友人より彼のことを真っ先に考えた。彼なら助けてくれる、ロールスロイスから転げ落ちた時のように。

冷静になれば、鑑札を持っている探偵が殺人容疑者の逃亡を手助けする利点はない。警察を嫌いでも、仕事上の関りは切れない。そんな人間にどうして助けを求めようとしたのか。血まみれの妻の死体を前にして逆上しながらも、僕は昔塹壕の爆弾を抱えて頬り投げた時のように、瞬時に判断を下した。彼しかいない、彼しか頼れる者はない、彼だけが僕を救ってくれる。

そして、その判断は間違っていなかった。卑劣な僕が、彼の親切を計算したことは間違いない。“夜中に猫の鳴き声がしたら、どうしたのだろうと見にいく”そういう男だ。

 

僕はいつも手を差し伸べられる側の人間で、誰かを助けられると思ったことはない。だからせめて非礼のない人間でいようとした。妻に捨てられ車から転げ落ちても、何日も食べず路上で倒れかかっても、相手には礼を尽くす。誰に対しても怒りは向けない。妻が他の男とベッドで寝ていても、義父から見放されても、僕は怒る資格がない。誰かの気まぐれな情けで生きているだけだから。

でも彼と過ごした時間は短いが、いつも楽しかった。バーで最初の一杯を飲むのに、彼以上の相手はいなかった。飾らず蔑まず求めず、ただギムレットを味わっている。平穏や充足というものがあるなら、あの時間だったかもしれない。僕の人生には無縁だったものだ。

知らないものには不安になる、それが手の中にあることが信じられなくなる。ランディやメネンデスのような友人といても得られなかったもの、溢れるほどの富がある妻といても感じられなかったもの。そんなものが僕の手に、僕の人生に在り得るのだろうかと。

怖ろしくなった僕は自分で壊した。それはほんの一言で足りた。
――自分のことを喋りすぎるね
彼がそう言ったとき、僕は壊したものの意味を知った。

 

壊したと、手放したと思った僕はそれでも、まだ信じたかったのだ。彼を、彼と僕との間にあったあの―――名状しがたいものを。そして彼は僕の薄汚い信頼を裏切ることはなかった。僕は全く彼の信頼に値しないというのに。

だからどうか、全て忘れて欲しい。醜く浅ましい僕のことなど、君の中に残したくはない。全部忘れて、また猥雑で静かな都市の喧騒の中で生きてほしい。頬に傷のある銀髪の男とすれ違うことがあっても、何処かで会ったような気がすると振り返ることもなく。夜の寂しい猫の鳴き声に耳を澄ます。

 

メキシコの錆びれた町にギムレットはない、僕はもうギムレットは飲まない。それだけが、少し寂しい。でもそれだけだ。ノックの音がする、扉があく、さよなら。これが最後の本当の、さよなら。

 

END