私たちがやったこと

彼の眼を潰したなら私の耳を焼くべきではないだろうか

 

夜の静けさが重いことに気づく。硬い椅子の肘掛けに凭れるようにして、少しの間眼を閉じていた。その間も眠っている彼の息遣いに耳をそばだてている。
風すらない夜に、微かな呼吸の音がする。胸に耳をあてて鼓動を確かめたくなるが、目を覚ましてしまいそうで、私は微動だにできない。息遣いも眠る横顔も苦しそうではない。ただ静かに穏やかに眠っているように見える。包帯に隠れたその瞼の下の左眼は潰れているのに。

―――お前の眼でなくて、良かった。本当に。

そう言って微笑みすらした彼の、右眼からひとすじの涙がこぼれた。私は何も言えず、上掛けの下の彼の手を握った。彼はそのまま眠りにつき、私はずっとここにいる。ばあやが替わりを申し出た時も、黙って手を上げ制止した。彼の眠りを妨げたくない。せめて今だけ、今夜だけでも、痛みと傷を忘れ眠っていて欲しい。医者が投与した強い鎮静剤は、あまり長くは使えない。明日からは傷の痛みを耐えながら、安静にしておくしかないと。だから今夜だけなのだ、彼が痛みを忘れていられるのは。

一瞬、彼の吸う息が深くなり、眉が寄せられる。痛むのだろうか?目を覚ます?だが、すぐに呼吸は穏やかになり、小さな声と共に寝返りをうとうとしていた。そちらは駄目だ、左眼があたってしまう。とっさに彼に覆いかぶさるようにして、彼の左側に手をついた。包帯に触れないよう、そっと左頬を支える。間近で見る彼の横顔。睫は黒く長い。彼の息で私の右手が湿る。

生きて呼吸するこの熱がどれほど貴重なことか。傷つけられた彼が呻きながら地面に蹲った時、私の心臓も凍った。冷たい氷の塊で身体を破かれたようで、息が出来なかった。どうして彼が?どうして傷ついているのだろう。これは私のはずだったのに。
黒い騎士を捕らえるために囮になることを画した私を、自身のほうが適任だと彼が止めた。自ら髪を切り、黒い衣装に身を包んだ彼は見知らぬ者のようで、私は戸惑った。そして胸の奧に僅かに予感があった。何かが歪んで―――壊れる。

その暗い予感は小さいが、確実に私の中にあった。地方で頻発する暴動、黒い騎士の義賊めいた行いを賞賛する民衆。あの不夜城のヴェルサイユは、人が暮らすには耐えられないほど窓が歪み、壁が崩れている。我らの後は大洪水、そう予言した女性は歿したが、今確実にどこかで歯車が軋んでいる。

軋みと歪み、人の悪意というもの。それが何故、彼に降りかかるんだ。こんなことは間違っている。間違えたのは、私。彼を傷つけたのも、私。そして私の間違いを正すのは、いつも彼だった。

 

思い出す、幼い頃。厩舎の隅で私は愛馬の首にもたれて俯いていた。横で馬の手入れをしていた彼が顔をあげ、私の左側に寄り添った。小さな声で、明日は晴れるよ、と言った。外は雨だった。
その頃、私は左耳が聞こえなかった。母から自身が女であることを告げられ、父からは世継ぎであることに変わりはないと言われていたが。暫くして左だけが聞こえなくなった。
聞こえていないなど、気づかれたらどうなるだろう。私は大人たちに対して、常に弱さを見せないようにしていた。強くなくてはならない、昨日より今日より、明日はもっと。そうでなければ、世継ぎとしての期待は終わる。

しかし彼だけは気づいた。彼は他の誰にも言わず、時折私の左側で囁くように言葉をかける。花の名前や、川の魚の居場所、月の満ち欠け、故郷の思い出、馬のたてがみの美しさ。
聞こえないその言葉を聴こうとして、私は雨音より密やかな彼の声に耳を澄ます。ほら晴れた、と彼が指差す青空を共に見上げた。空はどこまでも青く美しく、いつの間にか私は聞こえるようになっていた。

そうやって、長い長い間。彼は私の隣にいて、私が俯いていると遠乗りに誘い、ひとり泣きたい時は少し離れて見守っていた。私の怒り、弱さ、過ちを誰よりも知っていて、時に叱責し時に共に泣いた。その彼を。

 

蝋燭のおぼつかない灯りで見つめる彼の横顔。包帯にうっすらと赤い色が滲み出る。その色を見て、私は血が沸騰した。あの男、お前を傷つけた男。許さない、許さない。必ず捕らえる。私は猟犬になり魔弾の射手になり、あの男を追い詰めてやる。彼の苦しみをそれ以上を与えてやる。どれだけ価値のあるものを壊したのか、その身に知らしめるまで、決して諦めない。

下を向いて彼を見下ろしている私の髪が、彼の左頬に触れている。私はそのまま、息を止め、顔を近づける。彼の左眼の上に、触れずにキスをする。彼の眠りは覚めず、うっすらと微笑んでいた。
再び椅子に座り込み彼を見つめていると、次第に窓の外が白んできた。朝の薄い光の中でふと、私の右の髪先がひとすじ赤くなっているのに気付いた。私はそのひと房を切り取った。小さな絹布に包んで、コルセットの胸元に入れる。彼の血で染まった髪を。

 

そうして光が部屋を満たす頃。彼が目覚めた。まだ薬は効いているのだろう、表情は歪まず穏やかなままで。彼の手が伸ばされ、濡れている私の頬を包んだ。
「・・・オスカル」
私は顔を傾け、彼の細い声を聴こうと左耳を近づける。頬を包んだ彼の手を握ったまま、私は話す。空が美しく晴れていること、私がお前を誰よりも大切だと思っていること。お前の左眼が光を取り戻したら、また一緒に馬を走らせよう。どこまでも、雲を追ってふたりで。

 

―――一緒に行こう。私の、アンドレ。