世界が明日終わるとしてもー27

「ネッケルが罷免されたぞ!」
広場で誰かが叫んだ。その衝撃は集まった群衆全てに広がった。
「なぜネッケルが」
「王は俺たちより貴族や僧侶の味方なんだ」
「いや外国人の王妃の陰謀だ」
「諸君!!」
ひときわ高い声が響く。
「ネッケルが罷免された。これは我々への宣戦布告だ!」
「そうだ!」
賛同の声があちこちから起こる。
「シャンゼリゼ広場からルイ15世広場からマルス練兵場から、国王の軍隊が我々を虐殺しに来るぞ」
人々は顔を見合わせ、広場の先を振り返る。まだそこに軍隊の影はない、今はまだ。
「武器を取れ!国王に蹂躙されるだけの我々ではない!」
広場の民衆があげる怒号は、石畳さえ揺らしていた。武器を、武器を!横暴な貴族どもに制裁を!

「アンドレ」
広場の人々を遠巻きに見ていた彼の元に、子どもが走ってきた。
「武器を取れ!月桂樹の葉を身につけ、徽章としよう。我らの勝利の印だ!!」
知っている男が広場の中心で叫んでいるのを後にして、アンドレはフランソワの手を取りそこから離れようとしていた。ふと顔を上げると、冷ややかな笑みで広場を見ている男がいた。
「ベルナールは僕の想像以上のことをやってくれた、素晴らしい」
アンドレが思わず足を止めると、その男の目が一瞬彼と向き合った。男は謎めいた笑みを浮かべ、踵を返し去っていく。
「どこかで、そうだあれは・・ロベスピエールの」
今や知らぬものとてない地方議員の傍で、彫像のように冷たく整った容姿が印象に残っていた。その革命家の無機質な笑み。アンドレは胸がざわめいた。
「アンドレ・・」
呼びかけられて子どもを見ると、フランソワは震えている。
「僕・・怖いよ。どうして皆んな、あんなに怒ってるの」
「苦しいからさ」
「苦しいと怒るの?」
「人は苦しいと、誰かを攻撃する。誰かに傷つけられるんじゃないかと怖いから、傷つけられる前に倒してしまおうとする」
「だってそれじゃ・・目の前にいる人全部倒さなきゃならなくなる、変だよ」
「そうだ・・な」
アンドレは広場の先を見た。あの道の彼方にある王宮、そこにいる絹を着た人々は恐れている、自分たちの足元が崩れようとしていることに。そして民衆も、革命家が言うように軍が自分たちを殺しにくると思っている。疑心と恐れが双方に蔓延している以上、衝突は避けられないだろう。
「フランソワ、早く帰って支度をしよう。もう時間がないかもしれない」
アンドレは子どもを促して広場を立ち去った。背後の民衆は気勢をあげ、革命家を中心に月桂樹の葉をむしり取っていた。

 

「私はいま、死ぬわけにはいきません。あなたの信頼を裏切ったとしても」
「この手を・・離せ」
娘に剣を持った腕を押さえつけられながら、将軍は呻いた。だが無理やり振り解こうともしなかった。
「許されるべきではないと知っています。それでも私如き娘を、愛し育ててくださったことに・・感謝します」
将軍は一瞬怯んだ。オスカルは一歩下がり、将軍の手に握られた剣を見つめた。それはこれまでの人生で獲得しようと願っていたもの。そしていま、捨て去ろうとしているもの。
「父上・・・母上も、どうか・・・お元気で」
オスカルがそのまま部屋を出て、後ろ手に扉を閉めるまで将軍は微動だにしなかった。

「お嬢様・・」
正面の扉を開けた時、呼びかけられた。振り返ると、ホールの奥で涙を流しながら立っている老女がいた。
「私はいくよ。ばあや・・ありがとう」
「・・・いって・・らっしゃいませ」
何度も聞いたその声を背中に受けながら、オスカルは扉を閉めた。雨はいつの間にかあがっていた。
厩に行き、愛馬に鞍をつける。その隣の仕切りは空のままだ。オスカルは跪いて、そこにいた栗毛の藁の中に残ったたてがみを一房手に取り、胸に入れて外へ出た。石畳の上に自身の足音と馬の蹄の音しかしない。雨を含んだ大気、まだ夜は続いている。鉄の門に手をかける。冷たく濡れたその手触り。

―――振り返ろうか
今まで自分を愛し慈しんできた、全てのものが背後にある。全身が目となって、生まれ育ち、人生をつむいだその場所を感じ取っていた。一度だけ、ただ一度振り返れば・・・。

長い逡巡の間止めていた息をゆっくり吐き出し、オスカルは門を開けた。きしんだ硬い音を立てて鉄の門が閉まる。そして明ける空に向かって進み出した。決して振り返らずに。

 

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