世界が明日終わるとしてもー26

 

夏の長い一日が終わろうとしていた。オスカルが馬車から降りると、肩が小糠雨で濡れた。見上げると、曇天の空から雨が落ちている。
衛兵隊の他中隊が諸所の警護にあたっている間、B中隊の勤務はさらに過酷になった。待機とは名ばかりで、緊迫の増す市内警戒や流入してくる地方部隊との折衝まで中隊が負っている。今後一触即発もしくは騒乱になればB中隊があてられるのだろう。ていのいい捨て駒だとわかっている。しかし兵達に無駄死にはさせられない。
そのような局面での、軍司令官たる父将軍からの使い。それも宮殿ではなく自邸に来るようにと。

オスカルは門の前で館を見上げた。徐々に暗くなっていく空を背景に、壮麗な館はそびえ立っている。昔、ひとりの娘がこの館を宮殿と間違えたことがあった。それほどに偉容を誇る館だとその時まで気づかなかった。貴族として伯爵として、あまりに当然のものとして受容してきたそれらは今、崩れ落ちようとしている。

館に入る、階段を上がる。かつて、姉達や母の歌声が響いていた広間には誰もいない。歩いていく廊下に響く足音もひとりだけ。打ち捨てられた廃墟の神殿のような静けさ。そして立ち止まり、時代を経た黒い扉を叩く。
「入れ」
重い扉は押すと、軋んで開いた。

その部屋は変わっていない。しかし部屋の主は年老いていた。覚束ない蝋燭の明かりに照らされた横顔は、深い皺が刻まれている。幼いころ見上げた父は、巨人に見えたことを彼女は思い出した。
「まもなく、B中隊に出動命令が出る」
オスカルは一瞬息を飲んだが、声には出さなかった。
「その前に一つだけ、確かめておきたい。お前は・・」
父親は向き直り、彼女を正面から見据えた。揺らぐ明かりにその表情は判然としない。
「国と王家に忠誠を尽くすと誓えるか?」
その声は静かで抑揚がなかった。感情のいっさいを消し去ったような声音。かつてこのような声で問われたことはなかった。

暗がりに沈黙が続く。窓の外に微かな雨音がする以外、息を吐く音さえ聞こえない。
「私は・・」
オスカルは父の肩越しに窓の外を見た。樫の木の枝がガラスを叩いている。幼いころ、あの木はまだ窓に届いていなかった。
「私の愛する国に忠誠を尽くします」
「国か」
「はい」
「では、国とはなんだ」
「国・・・とは」

雨が強くなった。窓の外の枝が揺れている。緑の葉、強く黒々としたその幹。
「あの木、です」
「木?」
オスカルの視線を追って将軍も振り返った。
「木に実る一顆の果実、あるいは・・・一粒の麦。私が貴族として生まれ、有形無形の恩恵を受けてこられたのは、その実りがあるからです。実りないところに人は生きられず国もない。その実りがこの地上に生きる全てのものが、国なのです。その大地の上に、貴族も・・平民もない。ただそこに生きる者の営みがあるだけ」
将軍はあらためてオスカルに向き直った。その前の卓には、一振りの剣が置かれている。
「それらを統治し、支配しているのは王だ」
「命を支配することなど、王でもできません。飛ぶ鳥も、人の心も・・・誰にも縛ることはできない」
「ならばお前は、王に従わないと」
「はい・・」
「・・そうか」
将軍は卓の上の剣を手に取った。
「お前にもわかっているだろう。度重なる戦争が国の根幹を軋ませ、戦費は財政を破綻させた。貴族の凋落は激しく、台頭するブルジョワに抗しきれない。全てが軋み、歪んでいる。もし国が傾くことが、王の権威が失墜することがあれば、ヴェルサイユの貴族達は我先に逃げだすだろう。残された王は民衆の投石の的になる」
剣を抜き払い、鞘が床に振り落とされる。
「王の・・王妃様のこれまでご温情を裏切っても、お前は戦うというのか」
「私は・・己の真実に従って戦います。愛を裏切り、石もて打たれ、神の裁きを受けようとも、道を違えることはできません」
風が強くなり、窓が揺れた。頼りない蝋燭の灯りが、焦げた匂いと共にふっと消える。将軍は右手に抜き身の剣を握ったまま進み、オスカルの前に立った。
「王家を守ってきた我が一族から、謀反人を出すわけにはいかぬ。お前は私だけでなく、お前に繋がる血の全てを裏切るのだ。決して・・許されることではない」
「父上・・」
「何か・・言い残すことはあるか」
「・・・私は」
鞘が払われた抜き身の剣。柄にはジャルジェ家の紋章が刻まれている。幼い頃、この剣が欲しかった、父のように、父のような強い力を欲していた。その鍛錬に費やした日々、その日々には・・。
「私は今、ご成敗を受けるわけにはいきません。私は命果てる前にまだ・・やらねばならないことが残っています」
「なにっ」
「幼い頃、私は貴方のようになりたかった。そのために、骨が軋むほど剣を振った。その日々を耐えたのは、私一人の力ではありませんでした。常にそばにいてくれたから・・・彼が。私は生きなければなりません。生きて、成すべきことをしなければ」
残された時がどれほど短くとも。私はお前に、ただひと言を伝えたい。そして・・・そして。
「そのような道が許されると思っているのか!」
「私が許しを乞うべきは、神と彼だけです」
「お前はっ!!!」
窓の外の暗がりに稲光が光った、数刻遅れて雷鳴が轟く。その間に、稲光を反射して、剣が振り下ろされた。

_______アンドレ

 

 

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