言葉はその最初の一節を発声した時から、既に真実ではなくなっている。だから、ここに記されていることも、真実ではない。ただ私の心に浮かんだことを書き留めているだけだ。
そう記されていたのは、青い皮の小さな手帳だった。
いつか俺の目は見えなくなってしまうのだろう。だからこの記録もいつまで続けられるかわからない。それでも見えない目でも体感することができ、感じることが失われるわけではない。全て終わるのは光が失われる時ではないんだ。だからそれまでは書き留める。
これは、黒い表紙の手帳。
俺の手元に二冊の小さな手帳がある。書いたふたりを、俺はよく知っている。もうここにはいない。どこにもいない。天国はあるかもしれないが、そこに彼らがいるかわからない。
黒い手帳は、あいつを棺に入れるときに気がついた。あいつは兵舎の狭い寝台の中で、時々何かを書いていた。それがこれだったのかと思った。俺はためらったあと、隊長にその手帳を渡した。隊長はそれを、生まれたばかりの鳥の雛を抱えるように、そっと受け取った。
「・・アンドレ」
泣きはらしていた目元がふっと緩んだように見え、
「お前・・私と同じことをしていたんだな」
そう呟いた。
あの手帳を渡したのは正しかったんだろうか。でも隊長以外の誰に渡せる?
『三部会に選出された議員だけでなく、その同行者支援者が各地から集まってくる。加えて、故郷を捨てた貧民が流れ込んでくる数も増えた。パリ市内の人口はどれほど増えているのか。この不作の年に彼らはパンを口にすることができるのか』
『市内を巡回すると、広場では必ず誰かが演説している。集まる聴衆は日毎に増えているようだ。訛りを聞けばパリ育ちの者ばかりでないのもわかる。しかし皆、一様にぎらついた目をしている』
『彼らはパンを与えられれば、生き延びるだけで精一杯の日々が無くなれば、満たされるのだろうか。それとも』
『演説に高揚して叫ぶ人々。そこにいるのは、もしかしたら俺だったかもしれない。アランやジャンであってもおかしくない。衛兵隊士は誰も彼らを排除したいと思わないだろう』
ふたりとも筆跡は違えど、小さな字で書いている。日毎に緊迫感が増し、明日どうなるかわからない。そんな日々の中、少しでも多く記録を留めたかったのか。
『今日演説していたのはベルナールだった。彼の強い声と信念は聴く聴衆の胸を打っていた。ベルナールを解放しろと言った彼は・・正しかった』
『ベルナールに我々の側に来いと言われた、来るべきだとも。彼は革命の力を信じている。でも俺は』
『明け方、空が白む前。何故か目覚めた。窓から差し込む光の色がゆっくり変わっていく。夜半続いていた胸苦しさと咳は少し治っていた。このまま持てばいいのだが』
『目覚める前、瞼を開けず手を伸ばして木の壁に触れてみる。それからゆっくり目を開ける。見えている。少なくとも今日は、今は。起床の合図が鳴る前まで、天井の黒ずんだ梁を見上げる。見えなくなったら、この梁すら懐かしくなるだろうか』
『”覚悟はあるか”と父に訊かれた。私が選ぼうとしている道は命を賭さなければ進めない、その覚悟はあった。でも彼を、私の前に盾となり、父の刃の下にいて微動だにしなかった彼を、私は守れるのだろうか。彼の想いにみあうほどのものを、返せるのか。私の覚悟と彼の命、どちらかを選ばなければならないとしたら、私は選べるのか』
『夏だというのに、嵐だった。雨がガラスに叩きつけられていた夜。彼女の死を見るくらいなら、先に斬られても良かった。この愛が叶えられなくとも、永遠に手が届かなくても、決して彼女の死は見たくない。見たいのは、信じる道を進む彼女だ。見えなくなる目で見たいものは、それだけ。だから光ある間は、俺の命がある限りは・・見つめていたい』
『私の反逆を許そうとする、あの方の愛情。私はそれすら捨てようとしている。私の選ぼうとする道は正しいのか。だが今は、投獄された部下達を助けなければならない。彼らを時代の犠牲にしてはならない、絶対に』
『彼女の策をベルナールは承諾したらしい。彼ならできる、彼の信念は聴く者の胸を打つ。しかしこれは危険な賭けだ。想定以上の騒乱になったら、そのまま暴徒化したら。失われた命を彼女は自分で償おうとするだろう。流れた血で贖われる革命とはなんだ?だから俺は革命を心から信じることはできない、俺が信じるのは』
『多分明け方だった。血を吐いた。胸の奥がひりついたように痛くて、骨が砕けそうだった。息を吸うたびに、風穴のような奇妙な音がする。私の命は・・あとどれくらいなのだろう』
『日差しがいつもの年より弱い。冷夏になるのだろう。目を刺す陽光が時々ふっと暗くなる。そんな時、少し横を向いて何かに気を取られているふりをする。しばらく経てば光は戻る・・今はまだ。そんなふうに目を逸らしている間も、彼女を追ってしまう。今日も馬上で突然俯いて咳き込み、肩を揺らしていた。青ざめいっそう白くなった肌、細い顎先。彼女に異変が起こっている』
俺も見ていた。馬上で指揮をする時には弱さを微塵も感じさせなかったその人が、時折ふっと空を見上げていた。それを見ているあいつの目。陽が差すと深い緑色になる右目が、あの人を追っていた。眩しいものを見るように、苦しげで、愛おしそうに。
このふたりが幸福に永らえることはないだろう。そんな自分の考えを振り切ろうとして、完全に消すことはできなかった。それは、時折混じるふたりの眼が、そう語っていたから。
『医者の返答は思っていたとおりだった。長くても半年。答えを聞いた時、窓の外で高い鳴き声がして、雲雀が羽ばたいていくのを見た。だからその後、聞いた言葉も一瞬のみこめなかった。アンドレが・・失明、失明。光を失う、何もかも、私すら見えなくなる。どうして、どうして、どうして!!』
『眼がかすみ、ぼんやりと暗くなる時間が長くなってきた。あとどれくらいこの記録を続けていけるのだろう。出動命令を伝えてきたのはアランだった。アランも俺も彼女も、どういう意味を持つのかよくわかっている。しかしだからこそ、俺の目と俺の命が尽きるまで、この記録は続ける。人が、言葉を、最初の一言を発した時から、たどり着けない遠い真実に立ち向かうために、文字が言葉があるのだから』
俺は手帳を置いた。書かれているページは、あと僅かだ。でもそれを開くことができない。俺がこの先を知っているから。忘れられるはずはなく、いまでも血が吹き出している。それをさらに抉るのか。ふたりの墓を暴く権利が俺に。
この手帳を見つけたのは、ベルナールの妻だった。隊長の知人だというその女性は、白い顔についた血を拭きとり、手を組ませ、血まみれの軍服の上に花を置いた。その時、胸に仕舞われている二冊の手帳に気づいた。
二冊は隊長の左胸のあたりに重なっていて、表になっていた黒い手帳の表紙に弾痕が残っていた。隊長の体を貫いた何発もの銃弾、少なくともそのひとつは、あいつが止めた。
「ごめんなさい、私はこれを持っていることができません。あなたに預けます。だって・・あなたも、アンドレを、オスカル様を愛していたでしょう」
泣きながら俺に手帳を渡した女性は、ベルナールと一緒に去った。
俺は明日、パリを離れる。そして、おふくろと妹の墓のあるあの海へ、この手帳を流す。波にさらわれ、インクは滲み、ページは小さな白い破片となって水底に沈むだろう。その前に一度だけ、読もうと思った。あのふたりが、残していった言葉を。俺の記憶に刻み、何年も何年もかけて意識の底の方に沈んでいっても。あのふたりの生きた年月を、言葉を、愛を、真実を、遺されたからこそ、刻んでおかなければならない。ふたりの生と死を、バスティーユの日で終わらせてはならない。すくなくとも、俺の命のあるうちは。
俺は黒い手帳のページを開いた。
『これから出動する。生きて帰れれば、また書くことができるだろう。明日か、明後日か、もっと先になっても。俺の命があったことを刻んでおく、彼女への愛とともに』
最後のページはところどころ濡れた跡があった。愛の文字の、インクが滲んでいる。
『アンドレ、戦闘が終わったら、生きていたら。私はお前の目になろう。お前とともに生きよう。愛している、愛している、この言葉だけは』
青い手帳はここで終わっている。
俺は、二冊の手帳を持ったまま、長い間俯いていた。板窓の隙間から光が差し込んで、朝が来たことに気づいた。とうに消えていた蝋燭、鞄一つしかない部屋。俺は立ち上がる。そしてふと、黒い手帳の裏表紙に何か挟まっていることに気づいた。それは金色の髪と・・・赤い文字で、あの人の血で、書かれた言葉。
俺は扉を開けた、外へ出る。新しい一日へと、歩き出す。
―――永遠に愛している わたしの 真実の 恋人
END