世界が明日終わるとしてもー7

「昨夜からまた熱が高くなりました」
夫人が様子を見ようと部屋に入ってきた時、誰もいない寝台は冷え切っていた。侍女を呼ぼうとした手がふと止まって、そのまま階上へ小走りに上がっていった。目当ての部屋の扉を開けると、果たして娘が床に倒れている。
青ざめて息も荒い娘を助け起こそうとして、ジャルジェ夫人は息をのんだ。淡い色の夜着の裾にうっすらと血が滲んでいる。オスカルの呼吸を確かめてから立ち上がろうとして、床に散らばった手紙に気づいた。人を呼んで娘を自室に運ばせ、医師に使いを出してから、夫人は手紙を胸元にしまった。

「私たちの前では抑えていますが、咳が止まらないことも」
オスカルを診察した後、夫人と話し込んでいた医師が帰る頃には雨が降り出した。見送った夫人は礼拝堂に籠り長い間跪いていた。
”肺炎にしては症状が・・それともう一つ、奥様にお伝えしておくことがあります”
数十年来、主治医として信頼してきた。だからこそ打ち明けてくれたのだ。それがどれほど重い言葉でも伝えなくてはならないから。そして知った以上事実に向き合わなくてはいけない。でも、どうやって、どうすれば。神の前でも答えは出ず、夫人は煩悶し続けた。窓に叩き付ける雨が激しくなっていく。

当主が帰ってきたのはその日の夜遅くのことだった。夫人は侍女から夫の帰宅を告げられると考え込んだ。夫はここしばらく屋敷にもあまり帰らない。退役の話が宙に浮いたまま、打開できないことに苛立っているのだろう。それでも、いやだからこそ告げなくてはならない。

夫人が書斎に入った時、将軍は暖炉に火も入れさせず凍った部屋で椅子に沈んでいた。傍に近寄っても顔も上げない。椅子のわきに立ったまま、夫人は重い口を開いた。
「貴方に・・お話があります」
その口調に将軍が目を上げたが、煩わしさを隠そうともしなかった。
「いま、話さなければならない話か」
「そうです」
将軍の眉が険しくなった。夫人は夫の心中を図りかねていたが、語りだした。
「オスカルのことを」

肺炎ではなく胸の病。結核だと。軽くはなく楽観できない、かなり進行しているかもしれない。それに、あることで体力がかなり落ちている。長い療養が必要になるだろう。本人が納得できればだが。
「胸の病、それでは」
「まだオスカルには話していません。今でも軍籍に戻るつもりで治療を受けています。長期間の療養となればどう思うか」
「そのことなら私も考えがある。だが、あることとは何だ」

古い扉は開くと軋んだ音がする。此処は常に開かれている場所だから彼も拒まれることはない。教会は人気もなく静まり返っているが彼にはありがたかった。仄暗い中で天使を見上げる位置に腰かけた。だが僅かな月明りだけではどれほど目を凝らしても像は浮かび上がらない。
彼は目を閉じた。瞼の裏に微かな光の残影が揺らめいている。その中央に揺らぐものが次第に形を変える。白い輪郭、金色の影、ぼやけてはまた像を結ぶ。女の形はしかしこちらを向いていない。振り向いてくれ、オスカ―――。
止めていた息を長く吐いて目を開けた。名前を呼んでどうする、彼女は振り返らない。たとえ振り向いても、微笑むことは無いのに。

放心したようにステンドグラスを見つめていると、微かな足音がした。奥から僧服の小柄な男が出てくる。
「アンドレ、また見ているのですね」
アンドレは答えないままに微笑んだ。神父からは先日の焦燥が多少和らいでいる気配があった。
「何か良い進展がありましたか」
「あなたには敵わない、私などより余程人を見ている」
神父はアンドレに並んで立ち、同じように天使像を仰ぎ見た。
「以前、喜捨をいただいた方にお話ししたのです。当面子どもたちにパンを与えられる目途はつきました。ただ・・」
神父の眉が曇った。
「その方がおっしゃるには、できるならパリを離れたほうがいいと。詳しくは教えていただけませんでしたが、どうやら軍が集結するようです」
「軍が」
「地方で食べていけない民衆がパリに集まってきています。その流入を抑えるためなのか、あるいはもっと差し迫った危険があるのかも」
「そうですね。いずれにしてもパリが危殆に瀕しているのは確かです」
カフェの店先や広場で声を荒げる扇動者は増えこそすれ減りはしない。賛同する民衆の眼はぎらつき、皆一様に餓えている。僅かな蓄えも収入も、高騰するパンのかけらを手にすることに費やされていた。
――パンをくれ、パンを。私の息子は飢えて指を吸いながら死んだ。次は私の番だ。だがその前にお前たちに報いを受けさせる――広場にたむろする者達の声なき声は、潮のように満ちてきている。

「伝手があります。地方の捨てられた修道院跡に移ることを考えています。しかし生まれ育ったパリを、そしてこの天使と・・離れるのは耐え難く辛い」
二人は夜目に沈む天使を見た。陽や月の光がなくとも美しさはわかる。
--耐え難くとも、望郷の念やみ難くとも離れれば。いや、到底無理だ。
「離れれば運命が切り開けるかもしれません。私には・・無理でしたが」
「・・アンドレ、告解をしたいのでは」
「私は許される資格など」
「許されない者などいません。神は常にあなたと共におられます」
神父がその職責としてでなく、彼自身を案じていることが分かっているだけに、アンドレは躊躇った。己は許されるべきではないと抗弁してよいものだろうか。
「以前話したことがあります。人の一番深い罪は裏切りだと」
「ええ」
「私は、心から愛している女性の信頼を裏切りました」
「・・・」
「傍にいられるだけでいいと思っていた。彼女が他の男を想っていても、何も望まない。傍にいたいなら、ただ黙って微笑んでいること。そのつもりだった。しかし結局、私はそれほど強くはなかった。彼女に助けを求めたかった。気づいてくれたら、受け入れてもらえたら、沼に落ちるような恐怖も消えるのに」
「それがあなたの罪ですか、弱かったことが」
「弱さは時として・・・恐ろしいほどに人を傷つけるものです」
神父は押し黙った。告解でなら、罪の告白を聴き導くことができる。しかしただ一人の人間として、友人として、眼前の苦しんでいる者を助けることはできるだろうか。神の名をもってしても救えない人間を。

「フランソワが、君の手は暖かいといっていましたよ」
「フランソワが?」
「手を握ってくれているのが好きだと。アンドレ、君が誰かを傷つけたというなら、同じその手が誰かを暖めることもある。君の手は傷つけるときも暖めるときも、確かに人の掌だった。怪物のそれではない。君の優しさがその人を癒すこともあったはずだ。忘れてはいけない・・否定してもいけない。罪も許しも、人は両方抱えているものなのだ」

最初に気づいたのは水の音だった。川辺に立ち竦んでいることに気づいた。雨を含んだ川は水かさが増し、泥の色に濁った水は渦をなして流れていく。足元の草は濡れていて、靴を通してじんわりと冷気が伝わってきた。湿った靴に眼を落とすと、蛇が一匹、叢の中をゆるりと這っているところだった。

―――お前は彼の何を知っていたのかね
頭の中で、どこかで聞いたような声がする。
―――お前を愛している男のことを少しでも理解していたかね
その声は確かに聞いたことがある。たしか・・どこかの夢の中で
―――お前が目をそらしていたことが何か、これでようやく判っただろう
罪を告発すると、その声は――
濡れた草の上に崩れ落ちた。胃の中から何か突き上げてきたが、吐き出すものは何も無く。嫌な匂いが口いっぱいに広がって、身体を激しく震わせながら咳き込んだ。
「・・・・ア」
無意識に名前を呼ぼうとした。しかし声は出せなかった。身体の震えはとまらず、咽の途中で凍ったままの名前が、罪を暴き立てている。
――お前は・・お前は、あのとき・・私に
掌の中に握り締めた草の葉先が棘となって、白い皮膚に傷をつけた。
―――私に
地面に食い込ませた指の爪に、泥が食い込んでいる。
――――私に助けて欲しかったのか?!

蛇が鎌首を立てて、小さく光る眼でオスカルを見つめていた。“私はお前の罪の告発状だ”オスカルにはその意味がようやくわかった。自分が目を逸らしてきた、知ろうともしなかった、深い罪業が何なのか。

――彼が何故、怪物に変貌しなければならなかったのか、その理由が

オスカルは自分の両の掌を見つめていた。白い掌、しなやかに真っ直ぐのびた指、だが眼に映っていたのは、それではなく、あの日の・・あの時の・・自分を見下ろしていた隻眼の男。自分は彼が怪物だと思った。怒りに眼がくらみ、ひとつ残った眼の中にあるものに気づかなかった。その眼の中にあったもの、彼のただひとつの窓に映っていたもの・・・それは。

「奥様、旦那様。オスカル様がいらっしゃいません」
青ざめたオスカル付きの侍女の言葉に、夫人は書斎から走り出た。
「屋敷内のどこかにいるのではないのか」
「探しました。けれど何処にもおられなくて。バルコンに通じる戸が開いたままです」
将軍は窓の重いカーテンを力任せに開け放った。外の雨は霙が混じって、枝が風に煽られどうどうと鳴っているだけだった。

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