世界が明日終わるとしてもー8

「こんな天気じゃ客もさっぱりだ。もう閉めよう」
主人に言われてアンドレはテーブルや椅子を片し始めた。屋外に留まっていたいような天気ではなく、安い酒を求めて店に来る客もまばらだ。店の扉を閉めようとしたとき、道角からフランソワがやってくるのが見えた。彼に気づくと駆け寄ってくる。
「アンドレどうして教会に来ないの」
「仕事が忙しくてね。すまない」
フランソワの言葉に寂しさを感じ取って、アンドレは胸が痛んだ。あれ以来、教会に足を運んでいない。神父に言われた言葉を飲み込めないでいた。
「今日ね、お客様が来たんだよ。僕たちの様子を見たいからってお話ししたんだ。名前の書き方を教わったことを言ったら、その人が会ってみたいんだって」
「俺に?」
「アンドレのことを話したの。そしたら僕に案内してくれって」
「やはり君か、アンドレ」
覚えのある声で呼びかけられ、アンドレが顔を上げると男が立っていた。
「あなたは・・」

オスカルを探索するべく、ジャルジェ家は慌ただしかった。その為、来客が告げられた時も夫人は応対することができなかった。尋常でない館内の様子に、訪れた客は従僕に詰め寄って事情を尋ねると、そのまま踵を返し館を出て行った。

「どうして、お分かりになりました」
「珍しい名前ではないが、長身で隻眼の男と聞いてね」
フランソワを教会に帰し、二人の男は灯りの消えた店内で向かい合っている。
「孤児のために寄付をくださったのが伯爵とは知りませんでした。いつフランスへお戻りに?」
「内々にね・・あまり詳しいことは言えない。この教会には以前から喜捨をしていたのだが。つい最近、偶々私の屋敷へ訪ねてきた神父に会ったんだ。ここまで困窮しているとは知らなかった。だから当面孤児たちの心配はいらない」
「そうでしたか」
「理由を訊かないのか」
「訊くような立場にありません」
「よしてくれ、君に隠し立てしても仕方ない。我が子の病に苦しんでいる方がいる。そして今、息子の病は己が犯した罪への戒めだと悔いておられる。こんなことは贖罪にもならないかもしれないが、あの教会は子どもを助けているから」
フェルゼンはアンドレの用意したグラスの酒を手に取るとあおった。
「あの方のために何かしていないと私が狂いそうなんだ。助けたいのに・・手を差し伸べることさえできない」
その言葉にアンドレの表情が歪んだ。フェルゼンは気づいているのかいないのか、空になったグラスに目を落としている。
「ジャルジェ家を出たのか」
「はい」
それ以上アンドレは答えず沈黙が続いた。
「君たちが離れることがあろうとは、思いもしなかったよ」
「それは・・」
「切れない絆があるとしたら、君たちこそそうだろうと思っていた。惑い彷徨っている人間には、変わらない繋がりは胸が詰まるほどの憧れだった。私はどれほど君たちを羨んでいたか」
「変えたくはありませんでした。しかし変わらないものなど無い。今の私は、ただの漂泊者です」
「そうかな。私などよりはよほど・・いや、比較など無意味だ。すまない」
謝られるようなことでは、というアンドレの言葉を制してフェルゼンは立ち上がった。遠からずフランスを離れる、軍籍にある以上命令には従わなくてはならない。そう話しながら。
「しかしまた必ずこの国に帰ってくる。私にとってはここが帰るべき国になっているのだよ。あの方がおられる限り」
「帰る場所があるなら、どれほど時間がかかっても帰られるべきです」
「君もそうじゃないのか」
返答はなかった。
アンドレに別れを告げて、戸外に出たフェルゼンは夜空を仰ぎみた。――答えがないことも答えの一つだろう、彼らの絆は私達とは違う。
「いや、私がそう信じたいだけなのか」
フェルゼンの独り言に答える者はいなかった。

ジェローデルは迷っていた。彼女の行きそうな場所などわからない。だが闇雲に動きまわって探し出せるだろうか。雨でぬかるんだ道を馬で走りながら考える。
馬で出た痕跡がないなら、そう遠くへはいけないだろう。外套もなく病人が徒歩で行ける範囲は広くない。しかしいまだ見つかっていない・・背筋に冷たいものが流れて彼はかぶりを振った。多分大きな道沿いではないのだ。館からあまり遠くなく、目につきにくい場所。彼は馬を降りた。曳きながら歩くと、やがて川沿いに出る。水際まで近づいて水を飲ませようとした時、馬が何かの音に気付いて首を上げた。彼もふり返ると走り出した。木の陰に見えた白い影に駆け寄る。
「オスカル!」
声をかけても返事はない。だが頬はまだ暖かい、急がなくては・・。彼はオスカルを抱え上げると、立ちあがった。

「・・それで大佐は」
「お帰りになりました。オスカルが意識を取り戻したらお知らせすると約束を」
「そうか。ともあれ、今日のところは帰ってくれてよかった」
「あなた、オスカルのことは」
「退役させる。退役して治療に専念すると言えば王妃様だとて否とはおっしゃらない」
「お願いです。希望がないまま病を治すことは、生きていくことは辛すぎます。これ以上」
「この話は終わりだ」
荒々しく扉を閉め部屋を出ていく夫の背中を見送ると、夫人は椅子に倒れこんだ。深く息をして呼吸を整え、手の中に持っていた手紙を広げる。アンドレの部屋に上がって見つけた医師の手紙だった。もう一度目を通すと手で顔を覆った。嗚咽が部屋の中に籠っていく。

 

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