ほの暗き淵より

「オスカル・・オスカル、いないのか」
風が春の香りを運んでいる、気持ちのいい午後だった。剣の手合わせをしようといったのは彼女のほうなのに、どこにもいない。オーストリアから嫁いで来る王太子妃付きの近衛仕官として任官するのも間近だった。急なことで準備に追われ、ばたばたした日々が続いていたが、ぽっかりと時間の出来た今日の午後。
「最近、準備だなんだと、ろくに剣も使っていないから」
そういって昼になったら外に来るように言っていたのに。アンドレはもしやまだ屋敷の中なのかと思い、屋内へと足を向けた。

最近、彼女の様子は少しおかしい。アンドレは歩きながら考えた。正式に卒業もしないうちから近衛に入隊。しかも長年の確執が続いたオーストリアから来る皇女に仕えるために。環境の変化と重責にとまどっているのだろうか、いやオスカルはそんな弱気なやつじゃない。でもなにか、はっきりとはわからないが、多忙な日々の中でふと気が付くと、眉根を寄せて考え込んでいる。何を悩んでいるんだろう。考えているとオスカルの部屋の前まできていた。ノックして名前を呼んでみる。意外にも答えがあった。
「入れ」
やはりまだ部屋にいたのか。いぶかしんでドアを開けると、一瞬廊下の暗さとの落差に眼がくらんだ。そしてその次の瞬間凍りついた。

居間の中央の壁、彼女の腰より上に大きな鏡がある。そこには上半身に何も纏っていないオスカルが映っていた。彼に横顔を向けていたオスカルはゆっくりと振り向くと
「入って、ドアを閉めるんだ」
と静かに言った。彼は呆然としながらも慌てて後ろ手に戸を閉めた。

午後の陽光を背に受けて、肩までの金髪が輝いている。淡いシルエットに浮かび上がった細い肩。柔らかな腕の線。そして・・まだほんとうにふくらみ始めたばかりの固く尖った胸。その全てが金色の光を帯びていて、完璧な絵のようだ。アンドレは金縛りになったように動けず、声も出なかった。彼に向き直ったオスカルが近づいてくる。喉がからからになって、心臓が今にも飛び出しそうになる。オスカルはアンドレの前で立ち止まると、つと手を伸ばして彼のベストのボタンに手をかけた。そしてひとつづつはずしていく。仰天した彼がその手を振り払おうとすると
「動くな!」
ナイフのように鋭い声が飛んで、彼を縛った。彼女はボタンを全部はずすと、乱暴にブラウスと一緒にはだけさせた。少しオークルがかった皮膚の上にオスカルのひんやりとした白い手が置かれると、彼は本当に息が出来なくなった。
「どうして・・」
そう言って彼の胸に手を置いたまま、俯いているオスカルの表情はわからない。だがアンドレには彼女が泣いているように思えた。
「オスカル・・」
オスカルは何も聞こえないかのように、ゆっくりと肌の上に手を滑らせていまる。何かを確かめているかのようだ、彼は思った。何を?・・だがその手が腰へと下りてきたとき、彼は飛びのいた。これ以上触れられたら、たまったものじゃない。オスカルはまだ何も言わず彼を見つめていた。
「どうして・・」
彼女が再びそう言ったとき、ようやくアンドレにはわかった。彼は息を吸い込んで、オスカルの瞳をまっすぐに見つめて言った。
「オスカル・・お前はお前のままだよ」
彼女は黙ったまま、蒼い瞳を吸い込まれそうなくらい見開いている。
「今、そんなこと決めなくたっていいんだ。男でも女でも・・お前はお前なんだから・・」
オスカルは何も言わなかった。アンドレは果たして自分の言葉が耳に届いているのかわからなかった。

今日はもう、剣の稽古はないな。だいいち、どうやって顔を合わせたらいいんだか。アンドレはなかば放心しながら馬の手入れをしていた。彼女の中の淵は、きっととても深いのだろう、そう思わずにいられなかった。“どうして・・わたしが男じゃないんだ。この男の身体をもっていないんだ”そう言いたかったのだろう。
何年か前、出会ったときにはまだオスカルは自分を男だと思っていた。おばあちゃんが「お嬢様」と呼ぶたびに怒ったり、腑に落ちないといった顔をしていた。でも少しづつ、わかってきた様だった。士官学校に行けば周囲は男ばかり。女であることで揶揄され、その度に痣やかき傷をつくっていた。やがて冷やかしや当てこすりも、実力で潰していった。彼女は誰よりも強く、優秀で、そして美しかった。
突然の任官でオスカルは自分の行く先にあるものを前にして、改めて自らの淵を覗き込んだ。そこは深くて暗く、見つめていれば吸い込まれてしまうだろう。だが彼女ならその中に入り込んでいくことはないに違いない。そう信じたい・・。
アンドレが取りとめもなくそんなことを考えていると、突然厩の戸が開いた。そこには光を背にした金髪の少女が立っていた。
「アンドレ、ぐずぐずするな。剣の稽古だ」
彼はその姿を見て微笑むと、
「わかった、今行くよ」
返事をしながら外へと歩き出した。

END