世界が明日終わるとしてもー9

――三部会だ!ようやく・・ようやくこの時が来た。我らの時代。虐げられた歴史の終りだ。生まれた場所が違っただけで、蔑まれ足蹴にされた。これからようやく、私の俺たちのこの子達の夜明けが来る。
喧騒とともに人の波は日毎に増えていく。元々の住人だけでなく流入している人口も増加し、三部会のために集結する地方議員達に集う者達も少なくはない。政治と時世の大波に乗り、他より抜きん出ようとする野心に群がる人間の熱狂。

「危ういもんだ。前もそうだった。これで良くなる、飢えも戦争も無くなる。だがその期待が裏切られたときはどうなる?望みが明るかっただけ、落ちた時の闇は深く暗い。恐ろしいよ」
狭い通りを怒声を上げて流れていく人の群れを見ながら、店主は表の卓を拭く手を止めてつぶやいた。
「しかし今度は平民の代表が政治に参加します。変わるかもしれません」
「お前さんは信じているかね」
店主の声は責めているのではなかった。
「希望があるなら、信じたいと思っています」
「希望か・・そうだな。そんな言葉は長い間忘れていた」
店主は椅子に深く腰掛けると、右手を顔の前まで上げて見つめる。
「この手の甲の染みは、老いさばらえた男にでるもんだ。知らん間にこんなに年を取った」
眩しいわけでも暗すぎるでもないのに、店主は目を細め広げた手を固く握り、また開いた。
「お前さんが希望を、ほんの少しでも、鳥の嘴より小さくてもいいから持っているなら。それを捨てないでくれ」
「・・・」
「俺にはもう、無理だ」
「そんなことは」
「無理なんだ」
男は広げた両の掌に顔を埋め、その指の間から声が絞り出される。
「捨てたら、見失ってしまったらもう二度と戻らない。手に入らない。それが判ってしまった。手放すことはあんなに容易かったのに・・。年老いてから希望を無くすことは恐ろしいよ。真っ黒に口を開けた怪物の中に落ちていくようだ。落ちても這い上がる力は無い。だからだろう、お前さんやあの子のような」
「フランソワ、です」
「そんな名前だったな。未来を信じられる者には信じていてほしい。老いぼれにはそれくらいしか望みはないのさ。もしかしたらそれが希望と呼べるのかもしれん」
顔を上げた店主は力なく笑った。
「矛盾しているな」
「いえ。誰でも、どれほど希望を捨てたつもりでも、まだ信じていたいものでしょう」
「・・何をだね」
老いた男はアンドレの眼をまっすぐに見て問うた。
「・・・人を・・」
アンドレ自身が、己の発した言葉に呆然としていた。まだ俺の中に信じているものが、信じるに値するものがあるのだろうか。もしあるのなら・・・。

川沿いで倒れた日からオスカルの意識は混濁したままだった。稀に意識がはっきりすることがあっても、すぐに目を閉じてしまった。
ただ音だけが、周りの声や揺れた枝がガラスを叩く音、時間の感覚はなくとも音の意味だけは記憶の中に入り込み、それが時折浮かび上がる意識の表に出てきた。
“出血が・・ません”“・・あるいは・・つの可能性ですが”“・・ドレの、馬が・・”
母や医師の声は密やかなだけに耳に残った。出入りする侍女達の不安げな囁き、木が窓を叩く音、風がガラスを揺さぶる音、時には聴こえるはずのない音が・・部屋から遠く離れているはずの厩舎の中にいる愛馬の嘶き、そして誰かの暖かく優しい声・・名前を呼ばれている気がした。答えようとして手を伸ばした。その先には光の溢れた庭。

庭の隅で薔薇の蔓が揺れ、咲き誇った花弁を振り落とすように、葉陰から子供の姿が現れた。
“そんなところに隠れていたら、また擦り傷ができるよ”  “かまわないさ”  “でもおばあちゃんが怒るし、それに―――が傷つくのは嫌なんだ”  “お前だって私を捜して傷だらけじゃないか” “僕は良いんだよ、僕が怪我をしたって平気だ―――が傷つくより”
「・・分かった。もう薔薇の茂みには隠れない」
そうだ。私はそう言ったんだ。情景も言葉も全て覚えている。それから彼の馬を、若い駿馬をようやく彼が意のままに駆れるようになって、二人で遠乗りをした。空は高く、青く、どこからか薔薇の香りが風に乗って・・・。

眼を開けても視界は茫洋としたまま定まらなかった。だから懐かしく暖かい光景が夢だと気づくまで時間がかかった。夏の暑さも空の色も、余りに鮮明だったので、それが失われた過去のものだと思えなかった。庭で遊び遠乗りをして笑いあってから。長い年月が経ち、その間ずっと傍らにいた彼がいないことも。
――あの時、茂みに隠れないと言ったとき、彼はなんと答えたのだろう。陽が差したように笑って、確かに聞いたはずだ。どうして思い出せない・・どうして。

どうして?

涙が頬を濡らすのが判った。泣くことなど何の贖罪にもならないとわかっているのに。彼の声に耳を塞ぎ、彼を追い詰めた、彼の痛みを知らず打擲した。怯むことなく憎しみを向けた。
どうしてそんなことができたのだろう。彼はただ打たれるまま、許しすら請わなかったというのに。どうして彼は・・私は・・どうして、どうして。

自分に問いかけることなど無意味だ。犯した罪が、人を傷つけた傲慢が、消えるはずもない。彼が此処にいないこと。それが全ての答え。彼は去った。もう二度と会えない。だから受け入れるしかない。どれほど彼を・・・いても、私は追う資格すらないのだ。彼のいない人生、多分さほど長い年月ではないのだろう。だが、この一瞬ですら長すぎると感じるほどに、夢から目覚め、その温もりの中に戻れないと気づいたまでの数秒すら耐え難いほどなのに、受け入れ永らえることができるだろうか。

「アン・・」
名前を呼ぼうとした声が詰まった。顔を覆った掌が溢れ出る涙に濡れそぼった。泣いているという感覚すらなく、頬が濡れていることも気づかなかった。

 

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